したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

浄土真宗掲示板

1名無しさん:2013/10/18(金) 04:57:26
親鸞の言葉や仏教の言葉に対して日頃考えていることや疑問などを共有し話し合いましょう。
一応、浄土真宗掲示板という名前ですが何も専門的な知識は必要ありません。
匿名なので人に言えない愚痴を書くだけでも、宗教って糞気持ち悪いよねという宗教批判だけでも、何のために生きているのか分からないといった問いを共有するだけでも、なんにでも使ってもらえれば幸いです。
よかったらゆっくり話し合いともに学びましょう。

2名無しさん:2014/07/21(月) 17:20:01
宗教ってクソ気持ち悪いよね

3名無しさん:2014/08/04(月) 19:09:33
ここ10年ほど、本で読んだりお寺へ通ったりして浄土真宗の教えに触れています。最初は理解し難いところも多かったですが、最近はしみじみと良い教えだなあと感じています。

4名無しさん:2014/08/08(金) 01:14:35
なんか知らんけど浄土真宗の信者ってみんなエラそう。浄土真宗ってのはさぞ、立派な人間になれる教えなんだろうなあ。

5名無しさん:2014/08/19(火) 01:54:20
>>2
世間一般に宗教ってことで語られるものは=盲信の宗教だからね
気持ち悪くみえちゃうよね
まあ盲信以外に何があるのか僕は知らないんだけど

>>3
人の話を聞くということは本当に貴重なことだと思うよ
だけど本当に大切なのはそれを聞いて自分自身がどう考えるかかなとは思うよ僕は
良い教えだなあと思ったならそれを自分の言葉で表現してあげることが大切だと思う


>>4
ごめんね
偉そうなのは良くないね
ただ僕は謙虚な人間なんて一人もいないと思ってるよ
謙虚に見える人間はいるだろうけどね
勿論それを言い訳にして偉そうにしても良いんだってことにはならない
ムカついたら偉そうにするなって怒ってあげればいいと思うよ

6名無しさん:2014/08/26(火) 19:38:35
色々な味わいがありますが、私が一番惹かれるのは、自分は、弱くて、だらしがなくて、飽きっぽく、色々なことが至らない仕方ない者で、他人をほんとうに助けることもできないが、それでも阿弥陀仏が願いを掛けて後押ししてくださっており、それに従ってできる範囲で人の役に立つよう人生を歩んでいこう、と思わせて頂けるところかなと思います。

7名無しさん:2014/08/27(水) 03:21:54
そうですね。いいお言葉を頂けて嬉しく思います。
その表白こそ何ものにもかえ難い報恩であると思います。

8名無しさん:2014/09/06(土) 01:35:29
>>6
阿弥陀の「願い」は「全ての人を救いたい」という阿弥陀自身の願いであり誓いであって、
あなたに何かをお願いしてるわけではないと思う。
阿弥陀の救いは無条件だからあなたには何も命令しない。要求しない。何も後押ししない。
それどころかあなたの「人の役に立ちたい」っていう努力を根っこからぶっ壊していくものじゃない?
いかなる人間の努力も役に立たないんだからね。阿弥陀的に言うと。
そうやって努力を全部、無意味にされた人生で、一方的に無条件に救われた人生で、
あなた自身がどうやって生きるべきだと感じるのか、考えるのか、じゃないかな?
「阿弥陀の願いに従う」は語弊ありかと。何も命令されてない。「人の役に立ちたい」はあなた自身の欲求。

9名無しさん:2014/09/08(月) 20:35:16
その様にも表現できるかと思います。
確かに「選ばす、嫌わず、見捨てず」ということをその根本とする阿弥陀の本願は、その対象になんらかの条件を求めるものではないかと思われます。
また同様に、人間のいかなる努力も役に立つものではない、ということも他者の為と偽り自利のみを求める僕自身の現実を顧みるならば疑いようのないものかと思います。
しかし、そのような自身の現実に立つならば、真に人の役に立ちたいと思うことは自身の力では成り立たち得ないのではないでしょうか。
また、救いとは一体何であるのでしょうか。
僕は救うと言われても救いを実感することができません。
情けない話ですが無条件に救うと言われても、ああそうなんだというところで終わってしまいます。
僕個人において救いとは自分自身の為にしか生きられない現実においてなおそれでも人の為に生きたいと願うことができることであると言えるかと思います。
阿弥陀の願いとは法蔵の願いであるかと思います。
それは、一切の人々が心の奥底で願わざるを得ない願いでもあるかと思います。

10名無しさん:2014/09/09(火) 15:36:14
返答ありがとう。うん、全くその通りだと思う。
「真に人の役に立つ」という、不可能なことについて、
不可能であるにも関わらず、そのために生きたいと思う心、
不可能なことについて無限に努力し、無限に失敗し続ける人生を、
「賜っている」のだ、と言えると思う(「命令されている」「後押しされている」、ではない)。
そしてそれは「無条件」でないと、叶わないよな。
「人の役に立たないと救わないぞ」というものだったら、無限に努力することはできない。
人に役に立てません。それじゃあ、地獄行きです。はい、さようなら。で終わってしまう。
人間のいかなる努力も、全て完全な無駄、無意味、役立たず、で、あるからこそ、
頑張れるんであるよな。
「〜ができなければならない」という脅迫から、開放されること、
つまり「無条件であること」「人間のいかなる努力も無駄であること」それ自体が、救いなんじゃないかと、
俺はそう思ってる。上手く言えんくて、すまん。

11名無しさん:2014/09/12(金) 14:42:46
そうですね。その通りでもあるかと思います。
僕も上手く語ることができません。しかし、上手く語ることができなくてもなお語られるものこそ重要であるかと考えています。
僕は阿弥陀の本願は人それぞれにおいて展開し表現されるものであると考えています。
それは僕の狭い価値観では全く違うかたちに見えるものや、僕の表現とは真っ向から対立するものにもあてはまります。
なぜなら、そのようなかたちをとらずして「選ばす、嫌わず、見捨てず」という阿弥陀の本願はその本質を満たすことができないからです。
遇縁存在であり、さるべき業縁がもよおすならば如何なるふるまいをも喜んでしてしまう僕自身が救いとられる救いとは「いつでも、どこでも、だれでも」に成り立つものでなくてはならないかと思います。
親鸞は自信教人信に立ち、一切の弟子を持ちませんでした。
そこには、自分自身が他者の信を聞くことを縁としてなにを信じざるを得ないのかということがはっきりしていったという事実があったからではないでしょうか。
他者の信は、本質的に疑でしかあり得ません。
しかし、その疑によってこそ信はかたちどららるのであると考えています。
疑いとは無自覚の信であると考えています。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板