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悟りに至った方たちとの対話

578Y:2014/07/01(火) 09:42:16 ID:kBC6GKGU0
もう一つだけ私が何故自分の体験を至ったとするのか?
解決とは何であったかについて補足として書いておきます。
「終わり」は人生で言う所の「死」であり、始まりは人生で言う所の「生誕」です。
私の体験においてこの「終わり」には私の選択の余地がありませんでした。
思考を失うと私達にはまったく次の一手が思いつかないからです。
また「はじまり」にも私の選択はありませんでした。
「もう一度生まれよう」とも「この境地を認識しよう」とも「思う余地」が境地において無かった
にも関わらず、私は「再び戻った(幻想の分離が起きた)」んです。
この「終わりから始まりに至るまで 私には選択の余地が無かった」事実から、
私はその「始まりから終わりという人生の中において」選択の余地のなさを痛感したのです。
余地があるとは もう思えないという事です。
選択の余地が残っているならば 私は お二人の言う様に「もっと精進すれば何々」という事もあり
「自分の努力の余地」があるのですが、私には この余地が無いんです。
私は幻想の世界の住人ですけれど、不二という余地のなさの真実を忘れる事ができません。
どういう景色が見えようとも どうしようもなく 生きていく訳です。
この どうしようもない世界で 自分が思考しているつもりで 自分が選択をしているつもりで 生きているのがYです。
ですから「まだ先がある」という事に私の選択しているつもりの自由において乗っかったとしても
「つもりである」事がわかりきっているので さすがに楽しめないんです。
2+2の答えが4であるとわかっていながら「6かも知れない8かも知れない」と仮説することは楽しくないという事です。
私はこの「どうしようもないという事実」の体験において 思い知らされたので もう至ってしまったんです。
私には「もはや問いの余地がなく、考察の余地がなく、結論の余地がない」ので探求は終わったんです。
これを私は「至った」と呼んでいます。
お二人の悟りと、私の悟りが違うとか同じであるとかに私の結論が無いのです。


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