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「うのはな」さん 専用掲示板

1552.:2017/03/19(日) 19:19:00
>>1551

現代の話で言えば、悠仁親王殿下は父親が秋篠宮史仁親王殿下です。
その父親は今上陛下になります。この場合、父親の系譜を辿っていけば初代の神武天皇に
辿り着くため「男系男子」ということです。愛子内親王殿下は父親が皇太子殿下ですから、「男系女子」と
いうことになります。将来もし愛子内親王殿下が一般人と結婚されて子供が生まれたらどうでしょうか。

 相手は一般人ですから、父親を辿っても皇統(神武天皇の血統)に辿り着きません。この場合、生まれてきた子供は愛子内親王殿下しか
辿れませんから、「女系」ということになります。
 現代でも「女性宮家を創設せよ」とか「女系も認めよ」という論もありますが、歴史上ないことなのです。そうした伝統にも反していたことから、結局、
伊藤博文や岩倉具視の反対にあい、採択されることはありませんでした。

 自由民権運動の高まりで、憲法制定議論も盛り上がります。民間からも様々な「私擬憲法」が作られました。そして、憲法が議論される中、参議大熊重信の出した「意見書」が
波紋を広げます。明治11年(1878)に大久保利通が暗殺され、政府内では「いつ立憲政体に移行していくか」という議論が活発になっていました。
 政府の主な人物としては、消極派の岩倉具視に、漸進的な伊藤博文、井上馨、急進的な大隅重信というものでした。
伊藤と井上はなんとか岩倉を説得し、西洋型の立憲政治を実現させるほうへ道筋をつけていきました。

 ところが、明治14年(1881)3月、大隅重信は「翌年末までの憲法公布、2年後の国会開設、イギリス流の議員内閣制を導入せよ」などという意見書を提出します。伊藤と井上からすると、
やっと岩倉を説得してこれからというときに、あまりに急進的な意見で「何を考えているんだ....」と面食らってしまいます。岩倉は「大隅追放」も考えましたが、伊藤はこの時点ではそれには否定的でした。
 そうした状況の中、事件が起きます。「北海道開拓使官有物払下げ事件」です。

北海道開拓使長官だった黒田清隆が同郷の五代友厚に、タダみたいな格安値で官有物の払下げを行うことが明るみになり、自由民権派の政府批判も活発になります。
大隅派の部下たちは公然とこの件について批判を始めますが、これが伊藤の態度を硬化させ「利敵行為だ」と反発を招くことになります。意見書の件もあって、政府内での大隅への不信は高まっていました。
そこに来て、民権派と連動して政府批判を始めたので、「陰謀ではないか」との論も流れるようになっていたのです。

 もはや対処しなければなりません。大隅は結局、政府から追放されることになりました。
政府は、大隅はもちろん、政府内の大隅派の官僚、ブレーンを一挙に追放します。これがいわゆる「明治十四年の政変」です。
 官有物払下げも中止され、さらに、国会開設の要求が高まりを見せていたことから、国会開設の約束をすることによって激昂する世論を抑えようという方針がとられました。

 日本人が知っておくべき「日本国憲法」の話  KAZUYA 著


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