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「本流復活派」板
931
:
トンチンカン信徒
:2019/03/26(火) 20:57:43
>>930
SUB
平新皇と菅原道真公
MES
平将門公を、新皇につけたのは、天神様〜菅原道真公であることは、テレビドラマでもやっていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
概要
新皇(しんのう)は、天慶2年(939年)12月に平将門が「新しい天皇」の意で自称した称号。以後、将門は平氏出身であることから「平新皇」と呼ばれたとされる。後世の書物等では訛って「平親王」とも呼ばれるが、これは誤称である。
平将門は、源護や伯父の平国香・平良兼ら一族との私闘を繰り返し、その延長とも言える闘いで常陸国府を蹂躙し公権を犯したため、図らずも朝廷に対する叛乱者となってしまう。将門は、側近の興世王の進言等もあって東国制覇に動き出し、下野国府や上野国府を占領し、上野国府にて四方の門の警備を固めて諸国の除目を発令した。その時、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れ、「朕[1]の位を蔭子[2]平将門にお授けいたす。その位記[3]は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が捧げるところである。右の八幡大菩薩は、八万[4]の軍を催して朕の位をお授けするであろう。今ただちに、三十二相楽を奏でて、早くこれをお迎え申し上げよ。」と告げる。将門は位記を頭上にうやうやしく捧持って拝礼し、ここにおいて興世王と藤原玄茂らは贈り名を奏上、将門を名付けて「新皇」と称した。この将門の新皇僭称に際して、舎弟の平将平や小姓伊和員経らは諫言するも聞き入れられなかった。
この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく「分国の王」程度のつもりであったと思われる。
(親皇位経緯のポイント)
〜〜、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れ、「朕[1]の位を蔭子[2]平将門にお授けいたす。その位記[3]は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が捧げるところである。右の八幡大菩薩は、八万[4]の軍を催して朕の位をお授けするであろう。今ただちに、三十二相楽を奏でて、早くこれをお迎え申し上げよ。」と告げる。将門は位記を頭上にうやうやしく捧持って拝礼し、ここにおいて興世王と藤原玄茂らは贈り名を奏上、将門を名付けて「新皇」と称した。〜〜
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