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「本流復活派」板
1087
:
転載
:2020/08/08(土) 05:31:39
山ちゃん様の反応 (21302)
日時:2019年11月28日 (木) 13時25分
名前:千葉教区青年会会員
>通りすがりサンは本流復活派の人でした?<
トキさんが言われているのは、こちらの方だと思います。
2019年11月27日17:14
カテゴリ
平和論と和解論
とかく人としては「正義」を云いたがる。
これでもかと「正義の刃」を云いたがる。
「和解論」でもそうである。確かに『生命の實相』にも記入している。だが、一見正しいとみえるものが、そうではない事もある。
何故、「正しく」ないんだ!と怒鳴っていただいても結構である。何が正しくないかというと、そういう人には邪なこころが流れているからである。例えば、「平和論」でもそうである。「平和」を唱えている人ほど、喧嘩好きのことがある。何かにつけ文句をつけ、「平和論」と説くのである。これは自分の「感情」がちっとも平和ではない、常に闘争心がある。そんな人は「人を赦す」とかが出来ないのです。自分の感情が怒りに満ちていては平和も来ない。
それとおなじように「和解論」でもそうです。「和解を解く」のであれば自ら実践すればよいことである。自分自ら「学ぶ会」や「教団」に和解を持ちかけて、「学ぶ会」の人にはネットでもよい「一緒に話合い」したいと要望すればいいのではないか。そういうことをしないで、自分は大上段に構えて「何故。和解しないんだ」と怒鳴っていても、これは誰が見ても駄目な事である。「和解」という「待望」を唱えているだけである。心がちっとも「和解」する心に至っていないから、そういう人が唱えても多くの人が、「あいつまた出来ない事を云っている」という感覺しかでてこないのです。
今回のトキさんの投稿ですが、訃報であるのに「安東」先生をこの場で名前を出すというのは失礼である。何が何でも「安東巖」先生の責任にしたいんだろう。何か哀しくなる。現在役職もない一般人である。そういう常識もトキさんには持ち備えていただきたい。
失礼ながらトキさんに幾ら云っても無駄なのか?和解という事が出来ないのであろう。
http://tecnopla1011.blog.jp/archives/80742982.html
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