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読書紹介板
220
:
A空慧理庵
:2017/07/17(月) 23:36:39
>>219
仏教を異教と分かつ三特色の一つに、諸法無我印といふのがある。仏教は無我を称へて、生命の 中心主体と考へられた我(アートマン)を否定し、否定の赴くところ、我(アートマン)の来世へ の存続であるところの「霊魂」をも否定した。仏教は霊魂といふものを認めない。生物に霊魂とい ふ中心の実体がなければ、無生物にもそれがない。いや、万有のどこにも固有の実体がないことは、 あたかも骨のない水母(くらげ)のやうである。
しかし、ここに困つたことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、悪業によつて悪趣に 堕ち、善業によつて善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?我がないとすれば、輪廻転生の主体 はそもそも何なのであらうか?
仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、かういふ矛盾撞着に苦しんで、各派 に分かれて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかつたのが、小乗仏教の三百年だと考 へられるのである。
この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが、小乗の 経量部にいたつて、あたかも香水の香りが衣服に薫(くん)じつくやうに、善悪業の余習が意志に 残つて意志を性格づけ、その性格づけられた力が引果の原因となるといふ、「種子薫習」の概念が 定立せられて、これがのちの唯識の先蹤をなすのだつた。
豊饒の海第三巻「暁の寺」より
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