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非武装信仰板

1883転載:2020/02/12(水) 18:15:37

>クリスチャン・サイエンス・モニター紙 (CSM) は、日本人の 62%が無宗教としているのに、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を、ある参拝者の 「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」 というコメントを切り口にして、日本では、「宗教が生活の慣習の一部として存在」 し、「聖と俗が分かちがたい状況にある」 と説明している。これ、なかなかいいところを突いた指摘だと思う。
米公共ラジオ放送 (PRI) は、東京渋谷の金王八幡宮の田所克敏宮司の言を紹介している。彼は 「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう 2つ加わった、というだけのこと」 と、かなり乱暴なことを言っているのだが、まあ、ある意味日本人の宗教観が実際に乱暴だということだ。
田所宮司はこのあたりのことを、「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」 と説明する。そのため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教スタイルにし、葬式は仏教の形式で執り行う。西欧的な常識からすれば乱暴極まりなく、冒涜的ですらあるが、日本ではそれを誰もとがめない。
別のアメリカのメディア PBS (Public Broadcasting Service) は、東日本大震災の被災地の人々が見せた忍耐強さを、「荒ぶる神」 の視点から論じている。ケンタッキー州ベリア大学のジェフリー・リチー准教授は 「日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないもの」 とする。
「聖」 と 「俗」 を明確に区別している西洋的な宗教観からすると、日本人のそれは、かなり異質と言わなければならない。日本人は 「聖なる絶対的存在」 である神に 「宗教的導き」 を求めるわけではなく、ただひたすら 「受け入れる」 のである。現世利益を求めながら、時には 「荒ぶる神」 さえも、ひたすら受け入れるのだ。
早稲田小劇場を主宰していた鈴木忠志氏は、活動の場を東京から富山の山奥に移すにあたり、「これは 『信心』 からきたものだ。自分は神仏に対する態度を 『信仰』 ではなく 『信心』 と言いたい」 と語っていた。彼はこのあたりの日本的心根をかなりよく理解していたのである。


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