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「まじめな話」の板
8389
:
蒼天の實相
:2019/04/16(火) 11:26:17
>>8388
〜〜上記のつづき〜〜
2.歴史
2.3.その後
後南朝が衰退した後、高野山の宥快による弾圧からその後の影響もあり、安土桃山時代には立川流も徐々に勢力を失い、江戸時代には断絶した。いわゆる立川流と呼ぶことのできる教義や事相を持つ源流や本流の正嫡は、現在は伝わっていないというのが定説である[26]。
しかし、その独特の教義は『太平記』[27]や、好事家向けの浮世絵と風俗本に多くの資料や影響を残している。
今日ではその特異な教義などから「性行為に基づく秘術を修めた魔術的秘密結社」としてフィクション(特に伝奇小説)の題材とされる事も多い。一例としては黒須紀一郎や夢枕獏の著作が挙げられ、近年ではコンピューターゲーム『Fate/EXTRA CCC』に最後の真言立川流継承者という設定のキャラクターが登場している。
概要
文観(もんかん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧。小野僧正。殊音上人、弘真。醍醐座主。「文観」という僧名と「殊音上人」という上人号は「文殊」菩薩と「観音」菩薩に因むものという[1]。
正安2年(1302年)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。
後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造り、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。
正慶2年 / 元弘3年(1333年)に元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り東寺長者となり、建武の新政で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らは文観と立川流を危険視し、1335年(建武2年)に立川流の僧の多くを殺害、書物を灰燼に帰するといった大規模な弾圧を加えた。文観自身もこの時期に東寺長者の地位をはく奪され甲斐国へ流された。その後京都へ戻り、南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。
日野俊基の抜擢や、河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている[2]。
俗説では真言宗立川流中興の祖としても知られるが、これは宥快『宝鏡鈔』(1375年)が文観と立川流の両方を批判していることから生じたと思われる誤解で、『宝鏡鈔』自体に文観と立川流を結びつける記述は存在しない[3]。
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