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「まじめな話」の板
8388
:
蒼天の實相
:2019/04/16(火) 11:24:50
概要
立川流(たちかわりゅう)は日本密教の真言宗の一法流である。真言立川流(しんごんたちかわりゅう)とも。
通説では平安末期の仁寛(生年不詳-1114)が流祖とされ、南北朝期に文観(1278-1357)によって大成されたと伝えられる。宥快らによって邪教とされ、立川流の典籍は焼き捨てられた[1]。そのため伝存する資料が少なく、実態は不明である[2]。
宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し、男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている。ただし櫛田良洪は、遺された立川流の印信を調べてもそのような教義を窺知させるところは見出せないと指摘しており、ステフェン・ケック (Stephen K?ck) の研究では、通説に反して立川流の実態は真言宗の他の流派と大きく異なるものではなかったとの見解が提出されている[3]。
鎌倉時代の心定は著書『受法用心集』(13世紀)において、髑髏を本尊とする特異な法について解説しており、同書は立川流を批判した書とされている[4]。
2.歴史
2.2.中興
鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は文観を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。
1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。
1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇は隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[45]にまで上り詰めた。
これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。
〜〜つづき〜
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