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「まじめな話」の板

5679トンチンカン信徒:2017/11/17(金) 23:54:02
>>5678
〜〜つづき〜〜〜
(第2位に集中したのは、第1位の「真人」が皇族専用だったからのようです。) 「律令制度」の整備による天皇家支配の確立には、人の地位を「氏姓」ではなく「官位」で規定するように改めていくという方向性もありました。 「八色の姓」という制度には、「姓」の簡素化によって権威や有用性を失墜させ、それによって「官位」の価値を相対的に高めようという意図もあったようです。 このことも「姓なんかどうでも良い」という風潮を加速したかもしれません。 その後の賜姓でも、「源朝臣」を賜るというように、「氏と姓のセット」を賜るという形は保たれ続けたのですが、どんな場合でも「朝臣」の部分は変わらないわけですから、単なる形式的な決まりごととして認識されることになります。 その結果、「賜姓」の本質は「源」などの「氏」の部分だと考えられるようになり、そのうち「源」などの部分だけでも「姓」と呼ぶようになってしまったのだと思われます。 また、中国における「姓」という言葉が日本の「氏(うじ)」に相当するもので、「姓(かばね)」に相当するものが存在しなかったということも背景にあるかもしれません。 中国でも漢代以前には「氏」と「姓」が区別されていたようなのですが、「姓」が「家系」の意味、「氏」が「家格」の意味で、どちらかというと日本の氏姓制度とは逆ですね。 (同一の「姓」が複数の「氏」に細分されるという関係だったらしいので、日本の「かばね」とはかなり異なるものですが。) ちなみにインドのカースト(ヴァルナ)を「四姓制度」「種姓」などと説明することがありますが、この場合の「姓」は「かばね」の意味と考えられます。
権威づけとしての「賜姓」
 律令以降、平安時代初期までの新たな賜姓としては、以下のようなものがあります。
清原・在原・春原・伏原・長谷・文室(文屋)・広根・大江・弓削・夜須・長岡・岡 etc.
(参考:別冊歴史読本「源氏一族のすべて」新人物往来社 p.10) 平安時代初期には「源平」が賜姓され、以降は皇族を離脱して臣籍に降りる場合には「源」を賜姓するのが慣例となりました。 また、賜姓は皇籍離脱の場合に限って行われるわけではなく、外国人の帰化に際してというケースや、「豊臣」のようなわけのわからんケースもあります。 時代が降ると「猫も杓子も藤原or源」になってきて、姓氏では区別ができなくなり、世間一般は姓氏を使わなくなってきました。 鎌倉幕府成立以降、京都の朝廷から自立した権力主体が出てくるようになると、姓氏の代わりに「苗字」を権威化する状況(後述)も生じるようになり、公文書にも姓氏が出てこないような状況になります。 しかしながら、京都の朝廷は下賎な苗字など公文書には使いません。 既に「天皇の伝統的権威」だけが存在価値になっていた彼らにとって、「天皇が下賜した姓」を用い続けることは権威維持の重要な手段だったのです。 ですから、徳川幕府も、朝廷との間の文書にだけは姓を使っています。 明治政府も最初の何年かはこの方針を維持していたので、当時の文書は有名な人がとんでもない姓氏で署名していて、誰のことだか考えないとわからない状況になっているそうです。


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