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「脱力ネタ」板

850初心者:2014/03/27(木) 10:21:51
訊け様

>現在、当方は「返答に窮して」おります。いったい、ナニから語るべきなんでしょうか、そんな感じです。いや、貴殿の論はほとんどが、失礼かもしれぬが、「決め付け発言」です。決め付け発言を以ての立論ですんで、当方からすれば、「いったい、ナニから語るべきだろう」になるのです。一例だけにしますが、以下も相当の決め付け発言ですよ。見てみましょうか ――

説明責任はすべてこちらにありますので、楽ではないのですよ。論点はとりあえず、「人間中心主義のなにがそんなに問題なのか」でいってみます。

言表と出来事との一致をもって真理となす。これがわたしの定義する人間中心主義です。これがなにを意味するか、具体的に説明してみましょう。

たとえば「牛を育てて食べたい」とおもったとします。そしてじっさい、牧場で牛を飼って食べたとします。しかしこれは、人間中心主義ではありません。「牛は人間が食用にするために宿命づけられた生き物である」と言表したときに、これが人間中心主義になるのです。

「食用にするため」というのはひとつの命題です。ではいったい、誰がこの命題の正しさを保証しているのでしょう。もちろん人間ではありません。それはあきらかに人間を超えた存在ですね。その存在をイデアと呼ぶこともできますし、真理と呼ぶこともできます。

人間中心主義は、人間にとって都合のよい命題の正しさを保証する真理を必要としているのです。たとえば地下資源です。「地下資源は人間のためにある」と言表するのが人間中心主義です。なぜ「ためにある」といえるのかといえば、それが真理だからです。じっさいにも、「牛は人間が食べるために存在する生き物だ」といっている欧米人がいましたね。欧米人にとって、これはうたがう必要のない真理なのでしょう。

言表に出来事を一致させただけでは人間中心主義にはなりえません。「一致」を真理とするとき、それが人間中心主義となるのです。

「総裁は虚説である」と言表するのと、「総裁は人間的におとっている」と言表するのとでは、その意味あいはまったく異なっています。「総裁は虚説である」との命題を支えているのは真理だからです。人間中心主義の命題の正しさを支えているのも真理です。両者に構造的な共通性をわたしは感じます。


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