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「脱力ネタ」板

843初心者:2014/03/26(水) 20:38:26
訊け様

もういちどいいますよ。出来事をたんに言表に一致させるだけであれば、なんの問題も生じないのです。これに実相かくわわったことで、言表と出来事との一致が価値判断の問題とむすびついた。これが問題なのです。

「病気がない」という言葉は、それがあるかないかを問題にしているのではなく、それが真実であるかないかを問題にした言葉なのです。真実でないから病気はない。こういうことですよね。ではいったい、誰が真実でないと決めているのですか。人間をおいてほかにいませんよね。「病気はない」との言表は価値判断の結果の言表なのです。どうやって判断するのかといえば、実相に照らして、です。

ギリシャ人ももちろん善悪の判断はしていたでしょう。しかしそれは、そのものがどうであるかで判断がなされていたのですよ。それが重くて動かしにくければ「悪である」や軽くて動かしやすければ「善」であるというように。

実相がどうだから「これは善である」とか、こういうことをギリシャ人は言っていなかったのです。

生長の家はちがうでしょう。価値判断は「実相」という絶対的ともいえる基準に照らしてなされますよね。「肉体ありとするのは虚説である」というように、実相という絶対的な基準に照らして価値判断がなされますよね。

ギリシャの時代には価値判断の基準は人間の側にはなかった。重いとか軽いとかいうように、そのものの側に価値判断の基準があったのです。「病気は苦しいからいやだ」というのはあっても、「病気は実相ではないからナイ」とはけっしていわなかたのです。

人間中心主義とは、ものごとの価値を、人間のなかですでに用意されている基準で決めることをいいます。生長の家がやっていることもおなじですよね。もちろんギリシャ人はこのようなことはやっていなかった。

人間中心主義をやめるには、人間のなかに用意された基準でものごとの価値を決めるやり方をうたがってみる必要があります。生長の家にこれができますか、ということです。


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