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「脱力ネタ」板
842
:
初心者
:2014/03/26(水) 19:11:01
訊け様
「成れる果」で判断いたします。
一般の信徒において、「病気はない」とする言表と、「病気が消えた」とする出来事と、どちらが先かということです。「病気が治った」という出来事をもって「病気はない」と言表するわけではありませんね。その人にとっては、まだ病気があらわれているとみえている段階で「病気はない」と言表するわけです。言表に出来事を一致させようとしている、ということがこれによってわかりますよね。
わかりますか。言表が先で、言表したとおりの出来事があとからやってきますよね。ですけども、言表したとおりの出来事がやってくるとはかぎりませんね。むしろやってこないほうが多いでしょう。こういうときにどうなりますか。たいていは、「病気はない」と言表しつづけて病気を治そうとしますよね。なにがなんでも「病気はない」とする言表に出来事を一致させようとしますよね。
こういう場合、ふつうの人は出来事に言表を一致させようとしますね。病気という出来事をみて「病気になった」といいますよね。これがふつうです。生長の家は逆ですね。病気になった出来事をみて、「病気はない」といいますよね。そうすることで「病気が消えた」とする出来事を引き寄せようとしますよね。
生長の家の人は、言表が先で、これに出来事を一致させようとしますよね。これはこれで認めていただけますね。
さてここからが問題です。「実相」ということを生長の家ではいうわけですよ。つまりですね、「病気は不快であるから治したい」というわけではないのです。その出来事が真実ではないから、真実をあらわすために、生長の家の人々は病気を治すのですよ。生長の家の「病気治し」とは、真実をあらわすための行為なのです。
最初は、真実は「病気はない」という言表のなかにあるわけですね。いいですか、真実はまず言表としてあらわれるのです。もういちどいいますよ。真実は言表としてあらわれるのです。言表こそ真実なのです。出来事とは関係なく、言表のなかに真実があるのです。
ギリシャの時代には、真実は出来事のなかにあったのです。病気があれば、病気のなかに真実をみいだそうとしたのです。「病気はない」と言表するのではなく、病気のなかの真実に言表を一致させようとしたのです。ギリシャ人は「病気ない」とはけっして言わなかった。病気のなかに真実をさぐろうとしたのです。
生長の家は逆です。「病気はない」と言表します。言表優先なのです。言表こそが真実なのです。人間の言葉が真実なのです。そこにある出来事がどうであれ、人間の言葉が真実なのです。
人間の言葉を真実とする。これが人間中心主義です。ギリシャの時代には、人間の言葉を真実とするような発想はありませんでした。「牛は家畜である」とする人間の言葉を真実とする。これが人間中心主義です。ギリシャの時代には、「牛は家畜である」と言表したところで、これが真実であるとは誰も考えていませんでした(おそらくそういう言表をする人はいなかったでしょう)。
もういちどいいます。人間の言葉を真実とする。これが人間中心主義です。「病気はない」という言葉を真実とする。これが生長の家です。ギリシャの人々は「病気ない」とはけっしていいませんでした。なぜなら、真実は、言葉にでなく病気のなかにかくされていたからです。
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