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「脱力ネタ」板
197
:
「訊け」管理人
:2013/09/20(金) 09:33:56
>>志恩さん
<真理の解釈に関して>
解釈に関して分かれるとしたら、他宗だと思います。生長の家では、有り得ません。理由を以下に述べます。
たとえば個人的に、創価や幸福の科学、この辺の著書は読んだことがあります。そして、これらでは確かに「解釈が分かれるだろうな」「開祖の意図を解するには、講師が必要になるだろうな」と考えたことがあります。あんな書き方は、丁寧ではないです。
で、生長の家です。ここではそんな事態は、「有り得ない」です。
雅春先生の御筆には「誤読の余地がナイ」のです。
・・・・「誤読の余地がナイですって!?」「雅春先生は素晴しいですよ。でも、人によっては真理の把握は変わりますよ」そんな反論が来るでしょう。ならば私は、「誌友会を例」に挙げて、反論することでしょう。
いや、まず、各地区に存在した「誌友会」ですが、これって「生長の家でないと成り立たない制度」です。これを成り立たせるためには、聖典と呼ばれる『生命の實相』が「カンペキであることが前提」になるのです。意味は、お解りになられるでしょうか。
・・・・・・昨日までは、フツーのおっさんおばちゃんだった人でも、奇蹟が起せる奇書、それが『生命の實相』なのです。誤読の余地などあればこれ、この「各地区の誌友会制度」など、成り立たないのです。
・・・・・まとめますが上記の様な理由を以て私は、以下のように主張します。それは、「真理の把握は分かれる」という方あらばそれに対しては、「それはぜったいに〝未読だから〟です」と。
非難では、ありません。未読ならば「読めばよい」、それだけです。それだけで議論の平行線は、解消されます。そして教団も本流も聖典を、もっと読むべきと観じます。(ちょっとした発言で恥を、かくことになりませんか。そしてそれは、運動に於いては障害とはなりませんか)
拜
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