レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
業務連絡 3
たてました。
自己評価が低くて自己嫌悪の塊のようなところがあるAちゃん
なんですが、実はその裏返しのようにその本性は異常にプライ
ドが高いんです。占い師の最後の嵌(は)め込みトークは、そ
のプライドをカチンと刺激する発言だったのですね。占い師さ
ん、最後で焦ったようですね。
そこで今日占い師さんから届いた「どうですか、決心はつきま
したか」というメッセージに「そのようなことは良くないと思う
ので自分の力で努力して運命を変えてゆきます」と真っ当な返
信を送ったのだそうです。そうしたら即時に相手にブロックされ
て、Aちゃんは「勝った!」って実感があったのだそうです。
>193 「追い込みの電話」→「追い込みの連絡」
さて、このAちゃんの事例を考えてみますと、あまりにも変だ
と思いませんか?
占い師さんの言動もまぁ変と言えば変なんですが、それ以上に
Aちゃんの自己認識の頼りなさですよね。
彼女は最初、無料で占ってあげますよ、という申し出に何か裏
があるんじゃ?と疑ったそうなんです。そこでどこかに落とし
穴があるんじゃないかという疑いの気持ちで話を進めていった
んだそうです。なのにコロリと騙されてしまいました。そして
「貴女にはいま守護霊がいなくなっています」という事実と違
う自己認識をいったん受け入れて大泣きしてしまったのです。
自分が何かにつけ守護霊と通信しているにも関わらず。
これから二つのことが言えると思うんですよ。
一つは人間は目に見えず、手で触れない存在に対してはリアル
な実感を持つことが難しい、ってことです。こちらのテーマは
今回の主題ではないのですが、一応説明します。つまりご自分
の周りにいる家族や友人や第三者の存在を信じない人はいない
わけでして、それを信じられないと言うなら既に心を病んでる
方ですね。
ところが心の中の善なる存在である守護霊や指導例の存在とな
ると、通常は目に見えません。自分の心の中の想いだったり、
言葉として浮かび上がったりはするのだけど、確固とした実在
感を伴わない。見えないし、聞こえないし、触れられないから
です。
なかでも、実在感に与える感覚として視覚、触覚の役割は割と
決定的なものがあると思います。やはり見えない、触れられな
いと頼りないんですね。声だけ、聞こえるだけじゃなかなか難
しいのです。
Aは守護霊さんの声が聞こえるわけですが、それはまぁテレパ
シー的に頭の中で聞こえて来て日常会話ができるようです。聞
こえない人からすると、いいなぁ、私もそんなふうに通信でき
たらいいのに、と思うかもしれませんが、それでもやはり見え
ない触れないと実在感が足りないのでしょうね。
このことは実は逆に考えると、実在感を感じるためには、見え
て触れれば良いことになります。
これは意識エネルギーを駆使するうえで非常に重要な方法論で
あると思います。しかし今日はそれについてこれ以上の説明は
致しません。ただ、意識とは何かを考えたときに識とは思い考
える存在であるのですが、この思い考えるということと感じ知
覚するということ、そして言葉とは切っても切れない深い関係
にあるのだと思います。
さてこのAちゃんの事例から言える二つ目のことは、人間の自己
認識は思っている以上に頼りなくって、特に一人でいるときはま
あまあ安定してるとは思うのですが、人に対すると途端(とたん)
に頼りなくなってぐらついたりすり替わったりしてしまう、とい
う事実です。
Aちゃんの場合も騙(だま)されないぞと眉に唾(つば)をつ
けて聞いていたのに簡単に相手に騙されて、自分は守護霊も逃
げ出す運の悪い存在なのだ、といつの間にか自己認識を180度
曲げさせられていたのです。
人間ってチョロいですね。
でもまぁ自分に当てはめてみると、なかなか怖い話じゃありま
せんか。
そして現実社会では、よく観察してみるとこうした自己認識の
書き換えが色んな人によってしょっちゅう行われている、とい
うことに気づきまして唖然(あぜん)としてしまうのです。
おはようございます。
ちょっと話が本筋から横道にそれてまして、ほんのちょっと
思ったことを語るつもりが長くなってしまっています。
それは悟りとは何だろう、って話で私は悟りとは物事(自分
と世界の)理解度、見え方であろうと思うとお話ししたとこ
ろでした。
そして自分と世界の見え方は、自分と人との関係性によって
変わってくるのだ。では自分と人との関係性はどうやって決
まってくるかというと結局自分自身をどのような存在として
考えるか、自分自身の設定に行き着くのではないか、つまり
私のいう第一人称意識の問題が本質ではないか?このような
趣旨でお話をしております。
ところがここで大きな問題があります。
というのは人の第一人称意識はコロコロ変わってしまう。つま
り人間って自分をしっかり持つことが案外難しくって、すぐに
周囲や人に影響されていつの間にか自分自身の設定を書き換え
られていることも多いものです。そして家に帰って一人になっ
てふっと元の自分に戻ってああ悔しい、とかなったりします。
Aちゃんの例はこれに近いですね。
ああ悔しいとなればいいんですが、そのまま設定が書き変わっ
て小さな自分意識になってしまうこともあります。そういうと
きはわかっていても自分ではどうすることもできないことがあ
るので厄介です。
かといって自分を守ろうとしてガチガチに固めると、これまた
別の問題が浮上してしまいます。人が寄り付けないようになっ
ちゃいますから。
私は11年前の155スレで、意識は他者の意識との関係性の中で
進化・深化してゆくものではないだろうか、そして他者との関
係性というときにはまずベースとなる自分自身の自己認識が大
切であろうと考えこれを第一人称意識と名づけました。
次に自分と相対する他者である「相手」との関係性によって生
じる意識を二人称意識、そしてそれ以外の多数の人、つまり人
様世間様との関係性から生じる意識や認識を三人称意識と名付
けました。
そして世の中はこの「人の目」、相手からどう思われるか、人
からどう思われるかを基準として善悪良否を判断する人が多い
ことを指摘しました。
そのこと自体には普通の日常生活を送る上で大きな問題となる
ことはありません。ところが人間が生きている現実は人の中だ
けではないわけです。つまり人間は自然界の中であらゆる存在
との共存関係を持っているので、あまりに人間の意識や活動が
人間中心に偏りすぎると(つまり一人称意識、二人称意識、三
人称意識の活動ばかりに偏ると)次々と問題が発生してしまい
ます。
こうして起こったのが公害や環境問題ですね。自然や環境全体
を考慮して活動する必要に迫られたのです。
そうしますと人の目ばかり人の考えばかりを気にして生きてゆ
くだけではいけない。自然・環境・地球のことも考えながら生
きて行かなければならない、というふうに社会全体が変わって
まいります。これが四人称意識というやつです。
四人称意識とは自分の気持ち、相手の気持ち、人様の気持ちだ
けでなく自然界の客観性を取り入れた意識となります。個人で
いえば論理的な意識、全体を見る公平な意識ということになり
ますし、集団的に言えば地球・環境意識の高まりなどがこれに
あたります。
ここまでは目に見えて耳に聞こえ肌で触れられる存在を相手に
組み立てられた意識であるわけです。ところが存在には目で見
えず、耳で聞こえず、肌で触れても触れる実感のない存在も無
数にいるわけです。でも存在する、っていうやつです。
そうした存在の中で人間にとって一番身近で深い関係のある存
在といえばやはり守護指導霊であり、先祖の魂だったり幽霊と
いうような霊的存在な訳です。人間はこの存在を認めることで
根本的な見方の変化が生まれてまいります。だって死んだら終
わりだと思っていたら、死んでも終わらん話となってしまうの
です。
学校は高校、大学、大学院終わったもう学校の勉強は終わりだ
と思っていたら、魂から見るとこの世がそもそも人間にとって
の幼稚園、小学校だったって話ですからね。もう人生設計を根
本的に見直さないといけません。
今まで人生80年、90年と思っていたところを、死んだ後のあの
世での生活も考えてこの世の生き方を考える必要が生まれますし、
そもそも自分とは何か、何を目的に生きているのか根本的な疑問
すら考えないではいられないことでしょう。それは物事を考える
ときに「生きている間だけ」という時間の制約が外れることを意
味しているんですね。
このように目に見えない魂の存在を理解することによって生ま
れる認識、意識を私は五人称意識、と呼んでおります。
私の分類によれば物質的な世界認識は四人称意識が最後であり、
五人称意識からは目に見えない意識世界についての飛躍的な理
解が必要となる世界です。それは物質的認識の世界観とは隔絶
した世界観であるとも言えるでしょう。
そしてこの四人称意識と五人称意識との間にあるギャップをど
うやって乗り越えたらいいのか、四人称意識から五人称意識に
はどうやれば進むことができるのか、これが私の大きなテーマ
であるわけです。
国家レベル、最終的には人類レベルでどうすれば五人称意識、
そしてその次の六人称意識、七人称意識に進めるのか。それを
サポートしてその取っ掛かりを作ろうってのが私の仕事になる
わけなんですが。まぁそんなのを一人でどうこうやっていたっ
てどうなるものでもありません。そこは数の力が必要でして。
なので私も皆さま同様その One of them としてネットや身近
な人々との関わりの中で活動しているわけであります。
ちなみに私が第六人称意識と呼んでいるのは小は素粒子から大
は宇宙、目に見える木石から目に見えないイデアまで、あらゆ
る存在と交信対話することで生まれる意識のことを呼んでおり
ます。
また第七人称意識とは愛と慈悲そのものの意識のことですね。
話がまた横にそれていってはいけません。第一人称、自己認識
のお話でした。人の自己認識は強固なようでコロリとひっくり
返ったりぐらついたりすることがある、という話です。
それではどのようなときにグラついたりひっくり返ったりする
かというと、一つは自分が物事を思い通りにできなくなったと
感じたとき。もう一つは人の言葉によってではないでしょうか。
Aちゃんの場合は占い師のトークで一度はひっくり返り、プラ
イドで逆転したのです。
自分が物事をうまくできなかったとき、自己認識が変化してし
まうことがあります。すっかり自分がダメな存在であるかのよ
うに落ち込んでしまうことがありますね。
また逆に自分が思っていた以上に物事をうまくできたときには
すごく自分が偉い者みたいに錯覚してしまうことも、よくある
ことです。中高生の子供さんが自分のことを「凄くない?」っ
て同意を求めるやつですね。
しかしこの手の、私って凄い!とか、俺ってダメだ‥という自
己認識は、割と表面的な自己認識であると思います。もっと深
いところの自己認識を変えるにはどうすれば良いか?世間で一
般的に用いられている方法には二つありますよね。
一つは「罵(ののし)る」、もう一つは「嘲(あざけ)る」で
す。似ているのですが、この二つのやり方は違います。
「罵る」方は、お前はアホだ、馬鹿だ、間抜けだ、卑怯だと罵
詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせて、相手をああ、俺ってそう
なのかと錯覚させて落ち込ませて従わせる方法です。会社では
よく使われる方法ですね。学校でもよく使われます。なにしろ
一学期に2回はテストで点数で馬鹿でアホで間抜けなことを、
多くの生徒は自覚させられますから。家庭でも常にこれをやる
親がいまして、毒親っていうんです。
嘲るって言うのは、謎のカースト制度を設定しまして、その設
定の中でお前は底辺だよって態度を取ったり言葉で匂わせたり
することですね。容姿のことを「だっさー」と冷たく距離を置
いた態度で言えば、相手をこの罠(わな)にはまらせることが
可能になります。相手は挙動不審になっちゃいますね。
もちろんこれには嘲る方の人がダサくない格好と態度と言葉使
いができることが条件です。
攻撃された方がのほほんとした性格の方で、攻撃されても何も
思わないような人だと攻撃は無効化されてしまいます。ところ
が言われてうわぁとか劣等感を感じたりした途端、ゴソっと相
手にエネルギーを取られることになります。
攻撃者が優越感を持つと、ゴソッと剥ぎ取られたたエネルギー
は攻撃者に吸収されてしまうんですね。いい気分を味わえるわ
けです。信じられないことに、このいい気分を味わいたいため
に自分の子供を攻撃する親もいるんです。
人間のクズですね。
これをさらによく観察してみましょう。そうするとエネルギー
の出入りの鍵になっているのは感情であることがわかります。
もう一つは人間は無意識にエネルギーを求めて行動しているの
だということにも気が付きます。この場合のエネルギー獲得の
原理は「奪う」です。
人間の行動原理はエネルギーの獲得なのではないか?という仮
説が立つわけです。そしてエネルギーの獲得方法として、「相
手から奪う」が手っ取り早いやん、って多くの方が実行してい
ることもわかります。
ところがエネルギーの循環を観察してみますと、日常はもっと
別の有力な方法も使われていることがわかります。それは二人
の間でエネルギーをうまく循環共鳴させる方法です。この方法
を「愛」と案づけましょう。私が「愛」の定義をエネルギーの
交流であるとしている理由です。
テスト
>218 「案づけましょう」→「名付けましょう」
前回投稿からずいぶん経ってしまったのですが、実は7
日からまたエネルギーバランスを崩してしまいました。
念のため投稿は控えていました。気がつかずに変なこと
を書いてしまう可能性があるからです。
ようやく原状回復できたのですが、今度はホスト規制に
引っかかってしまって投稿できませんでした。残念なが
らiPadからの書き込みはできなくなってしまったようで
す。
幸いにPCは回復できたので今後はPCからの投稿になるわ
けです。
本日はちょっと遅いので明日、というか17日から投稿
再開いたします。ご質問の答えもずいぶん引っ張ってお
りますので順次お答えしていきたいと思っております。
では失礼します。
こんにちは。>218の続きです。人はエネルギーを求めて
生きているのではないか、という仮説をご紹介しました。
エネルギーとは物質的エネルギーはもちろんなですが、
ここで言っているのはもうちょっと広い概念でエネルギ
ーを考えておりまして、主として意識エネルギーのお話
です。
なぜ人は意識エネルギーを求めるのかと申しますと、率
直に言って意識エネルギーを獲得すると気分が良いから
です。これは皆さん色々体験があるのでご理解頂けると
思うのですが、実はこの気分良さは獲得したエネルギー
量に応じて何日も何週間も持続しております。
意識エネルギーを獲得するとその瞬間グイと自分が大き
くなったような気がして気分が良い、というのは誰しも
経験してると思うのですが、その気分良さが持続してい
ることに気がついている人は案外少ないかもしれません。
よくご自身を観察してみると、なんとその日一日だった
り、その後何日間だったり、あるいは何週間と多少嫌な
ことがあってもへっちゃらで気分良いまま過ごしていた
りするんですね。
では意識エネルギーの獲得はどうやってるのかというと、
世間的には大きく二つあるのが観察できます。「剥奪」
と「共感・循環」です。
要は他人をぶん殴って(比喩です)、他人が「ぎゃぁ!」
と言えば(比喩です)その瞬間に他人様からゴールド
(意識エネルギー)がぴょんと飛び出してご自分の懐に
入ってくる、って仕組みでして。まるっきりゲームの○
○オそのものです。
猫姫様がいつも指摘していたやつであります。
「剥奪」の方法には他にも色々あるようですがこれ以上
は控えます。
もう一つの方の「共感・循環」はこれも人が元気になる
方法として一般的でして、本質的には「循環」なのだと
思います。
女性がお得意な共感であります。共感することでエネル
ギーが通じ合って、通じたエネルギーをお互いに循環さ
せてゆく事でなぜかどんどんエネルギーが増強充填され
ていってしまうという謎システムであります。
ホントに謎。
謎なんだけど現実にこれでお互いがエネルギーを獲得し
てしまうのでこれは最も好まれるエネルギー獲得方法だ
と思います。
女性だとこれは友人などとの際限のないおしゃべりのよ
うな形で実施されることが多いようです。
また家族や友人や恋人などの間でもこの方法は良く利用
されております。男性は会話を情報交換という側面から
見ることが多いと思うのですが、そういう立場からは女
性のおしゃべりは「何で彼女たちはあんなに無駄口を叩
いて飽きることがないんだ?」というような見方をして
しまうことがあると思います。
でも実際は情報交換が主目的とは限らないということな
んです。そこに意識エネルギーの交換がなければならな
い。きちんと言葉に意識エネルギーが乗って相手に循環
していかないといけない。でなければ女性にとっては話
する意味が無い。
想い・言葉を発するときに感情が動いていないといけな
いんです。感情が意識エネルギーのゲートの役割をして
いるからです。男の人は女性と話すときに「何か聞かれ
てかれているから正しく情報を伝えれば良いんだ」と思
って極力理性的・知性的に話していこうとすることがよ
くあります。
しかし、これでは女性はエネルギーが入ってこず循環が
出来ないので怒ってしまうのです。
つまり女性がそこで求めているのは貴方の情報ではなく
貴方の意識のエネルギーであり貴方の気持ちが動き、変
化を感じ取ることだった、と考えられるのです。
こんにちは。
私事ですがあまりにも度々エネルギー的な問題が起こっ
て書き込みがしにくくなってしまうので、これはどうし
たことかと考えておりました。
色々工夫することで回復する度に送信能力は向上する傾
向にあるので、自分の潜在意識が能力向上を狙ってわざ
と問題を起こしているのだろうか?と考えることもあり
ました。
しかしそれにしてもやはり何かがおかしい。よく考えて
おりますとYouTubeに違和感を感じるようになりました。
そこでメディアと意識エネルギーの動き方を調べてみた
ところ驚きの結果が出ました。
それはYouTubeのエネルギー要求量が他の映像系メディ
アと比べて桁違いに多いとうことです。NHKや民放テレ
ビでも視聴すると何らかのエネルギーを捧げるといいま
すか、視聴者からテレビ局や制作者側にエネルギーの流
れが生じているようです。ところがYouTubeを視聴した
場合はその量がNHKや民放、NetFlixやアマゾンプライム
動画等と比べて100倍程度ものエネルギー量となるら
しいのです。
その大きな違いを生んでいるのは、NHKは受信料を、ま
たアマプラやNetflixはサブスク契約で対価を支払って
おり民放の場合は対価としてCMを視聴しております。
ところがYouTubeの場合は広告の入る動画もあるのです
が基本料金は無料です。このことが動画制作者・公開者
の側にエネルギーを集める強い吸引力を生み出している
ようです。その結果、タダより高いものは無い状態を生
み出しているようなのです。
私の場合はついついいろいろな動画を見て時間が過ぎて
ゆくために視聴時間が多すぎてエネルギーが取られ過ぎ
になってしまい、エネルギー不足になってしまったよう
なのです。
そこで早速対策を取ることにしました。YouTubeの時間
を必要最低限に減らしました。結果としては上手くいっ
ているようです。今後安定して投稿が可能になると思い
ます。
世の中はいまロシアのウクライナ侵略で大変なことにな
っております。これはかつてのアフガン侵攻などとは違
って世の中の仕組みをかえてゆくかもしれない歴史的な
事件となると思われます。私達とも大きな関わりがある
ので時間があれば時事板で説明したいと思います。
では失礼。
こんにちは。
時事板で説明したとおり、ロシアのウクライナ侵略の歴
史的な意味についてはすでに多くの賢人が言及している
ようですので一旦措(お)いておきます。
>227 の続きです。日常でエネルギー循環がどのような形
でなされているのか、というお話をしている途中でした。
私達が精神的肉体的な活動を続けてゆくためにはエネル
ギーが必要です。そして実はエネルギーには様々な種類
があります。私達はそれを学校の科学や物理の授業で位
置エネルギー、運動エネルギー、熱エネルギー、電気エ
ネルギー……などと習ってきました。
これらは物質的エネルギーですね。物質世界で様々な現
象が起きるのはこの物質的エネルギーが循環を繰り返し
ているからです。しかし物質的エネルギーだけがエネル
ギーなのではありません。人間意識、そして意識世界に
おける様々な現象もまたそこにエネルギーの存在と循環
があることを表しています。
そしてこの意識エネルギーについては人々はあまり深く
は考えていないのです。学問の世界においてはそんなも
のは想定すらされておりません。
知らない、知られていない、ということは意識エネルギ
ーの存在を知っている人にとっては凄く有利な立場を取
ることができるのです。どうしてかというと、気づかれ
ずに自分に有利な動きができるからですね。ステルスな
んです。あれ?っと気がつくのはもうやられてしまった
後なので、物理攻撃と違って一体誰にどうやられたのか
もわからないままなんですね。
つまり意識エネルギーを悪事に活用している人々も案外
たくさんいるのです。
一方で社会全体としてそれらの活動を中和できるだけの
ライトワーカーの方々も存外にたくさんいらっしゃいま
す。
意識エネルギーは人間の意識活動を成り立たせているエ
ネルギーです。意識は目に見えないのでなかなか意識エ
ネルギーの存在や働きに気づけないのですが、人間の意
識は肉体と密接な関係がありますので意識エネルギーは
肉体を支配するエネルギーでもあります。
全ての現象を作り出すのはエネルギーなので、エネルギ
ー抜きに物事を理解しようとしてもなかなか難しく納得
できないことが多くなってしまいます。
しかしいったん意識エネルギーの存在を認めてよく観察
してみますと、案外するするといろんなことが分かった
り納得できるようになります。
意識エネルギーはこの広大な宇宙の全ての空間に充満し
循環し続けております。そしてこの意識エネルギーが私
達の意識の中を滞りなく循環してゆけば私達はとても気
分が良いわけです。
一方、そのエネルギーの流れが滞ったり欠乏したりする
と、なぜか何も行動する気が起きなくなったり、気分が
陰々滅々(いんいんめつめつ)として落ち込んだり、あ
るいは気持ちがとても辛く苦しくなってしまったりを体
験することになってしまいます。
私は明治期の文学を読みますと、よく「今日はなんだか
気分が良い」みたいな描写があるのですが、読む度にこ
れは一体何のことを書いてるんだろうと不思議でした。
いまになって考えて見ると、その「今日は気分が良い」
とか「今日も気分が晴れない」という描写は明治期の都
会のインテリ青年の意識エネルギー欠乏状態による憂鬱
を表す表現であったのだろうと思われます。
田舎者の私には縁のない精神状態だったので理解不能だ
ったわけです。
私が言う「意識エネルギー」はある意味では一般に言う
ところの「気」とか最近よく聞く「レイキ」などという
ものと同じだと思います。
ただ厳密に同じ概念かというと少し違うかもしれないと
いうか、多分もう少し広い一般的な概念として言ってお
りますので細かく見てゆくと「気」や「レイキ」とは違
いが出てくるのかもしれないと思います。
そこで一応今後も「意識エネルギー」という言い方を使
わせて頂きます。
物理学で言うエネルギーは「仕事をなし得る能力」とし
て定義化されておりましてその仕事はJ(ジュール)と
いう物理単位で評価されます。
私のいう意識エネルギーはこのエネルギーの概念を拡張
したものです。従って意識の仕事量として計測可能だと
思うのですが、現代の科学では意識の仕事を定義する方
法がありません。しかしいずれ科学が進歩すれば定義が
可能になり、意識のエネルギーを計測することが可能に
なることでしょう。
意識のエネルギー量を測るということはですよ、異世界
転生して冒険者ギルドに登録に行くじゃないですか。す
ると魔力計測をされるわけですよね。ああいうことが将
来は現実に出来るようになるのだろうってことですね。
実際異世界転生漫画の魔力の概念は私の考える意識エネ
ルギーに極めて似ており、その活用法についても、漫画
のように物質的現象を起こせるわけではないのですがき
わめて似ていると言えるのです。
さて剣と魔法の異世界に行きますとね、魔法には水とか
火とか様々な属性があるんだそうですね。意識エネルギ
ーにも実は様々な種類があります。物質的エネルギーは
相互に変換が可能なように意識エネルギーも相互に変換
が可要とは思うのですが、種類毎に様々な使い分けがで
きるのですね。
例えば私は金属のエネルギーを使って単純な浄化機構を
作り、試してもらったことがあります。金属のエネルギ
ーですから構造を作るのに適しているんですね。
周囲の空間の邪気を浄化して綺麗な気だけ供給するよう
な空気清浄機のような機能を設計して意識エネルギーで
作り、自分では作っても分からないのでそれを師匠に装
着してもらってどう働くか試してみたのです。そうしま
すと二、三日でクレームが入りました。
その機構を背中に装着して背中から清浄な気が供給され
るような考えだったんですが、なんと「強すぎてしんど
い」って言うんです。どうも自動で周囲のエネルギーが
集まって浄化され、しかも増幅されていたようです。
結局その実験はそこで中止いたしました。
さてこの話を聞くといろいろ疑問をお感じになると思う
んです。まずそれは魔方陣のようなものか?と疑問に思
うでしょう。
ちょっと似たところはありますが魔方陣というよりは霊
的な機械というか、機構というのが適切だと思います。
それは155の話であって我々には関わりの無い遠い世
界の話ではないか?という疑問もあると思います。
そうではなく、やり方を知れば多分誰でも出来ます。し
かし教えません。危険だからです。
何が危険かというと、案外簡単にできてしまうものなの
で、あまりこのような魔術的な知識が詳しく広まってし
まうと自分の欲望実現のために使おうと熱心になる人た
ちがたくさん出来てきてしまうからです。
ではなぜこんな知られたくない話をするのか?というこ
とになるのですが、実は意識エネルギー、私達の日々の
想いのエネルギーは簡単にこのようなことができる大き
な力を持っており、そのような力を多くの方が無節操に
垂れ流しているってことなんですね。
私達は文字や言葉は人の目に触れ耳に聞こえて相手に分
かるので慎重になるものです。慎重になることを忘れて
増長したり増上慢になった発言をすれば今時すぐに炎上
してしまいます。
ところが心の中の想念は人に伝わらないから何を考えて
も自由だと思っている人が多いのですが、そんなことは
ありません。日々の考えるエネルギー、想いのエネルギ
ー、この意識エネルギーは構造を作り、機能を生み出し
て物質的精神的現象を起こしてしまうのです。つまり
「仕事」をしてしまっています。
あるいはまた日々の考えるエネルギー、想いのエネルギ
ーは周囲のエネルギー体や意識に命令して破壊的な想い
には破壊的な現実を、円満は想念には円満な現実を作り
出すように現実を調整していきます。これも意識エネル
ギーの「仕事」ですね。
さてもう一つの疑問が有ると思うんですね。師匠に清浄
なエネルギーが増し増しで流れ込んだのなら、師匠ムキ
ムキ無敵になるんじゃないの?って疑問ですね。なんで
しんどいんですか?って話です。続きは次回に。
霊感即ち霊的感覚(霊的視力や霊的聴力など)のある方
は少ないのですが、霊能即ち霊的能力は誰でも持ってお
りまして、皆さん当たり前のように駆使しているわけで
す。駆使していても当たり前すぎて駆使している事実に
気づかないだけなんですけどね。
それでは私達の駆使する霊的能力にはどのようなものが
あるかというと、思うだけ、心に想像するだけで様々な
現実を作り出す、という創造的能力があるわけです。こ
れが私達の持つ霊能の根本だと思います。
こう申しますと、いや私の人生全然思うとおり想像する
とおりにはなっていないんですけどどうしてですか?っ
て反論もあると思いますが、そうじゃありません。
まず人間って、自分が何を思い考えているかってことは
あまりよく分かっていないことが多いようです。つまり
あまりにも自分自身に関する観察や理解が自己中心で客
観性に欠けることが多いのですね。
このことは本人の頭の良し悪しとはあまり関係が無いよ
うです。あたまのいい人であっても自分自身のことがよ
く理解出来ていない人がたくさんいらっしゃいますし、
その逆の場合もあります。
特に私が思いますのは、怒りんぼの人ですね。実際は怒
りんぼのくせに、自己認識としては俺は優しい人、私は
親切な人、と錯覚している人が多いようです。怒りとい
うのは物事を破壊する想念ですからね、そりゃ上手くい
かなくなることも増えてくると思います。
どうして自分が怒りんぼと気づいていないかというと、
実際に大声を上げて騒いだり相手を罵(ののし)ったり
というように形に表してないからですね。人間は自分自
身のことであっても形に表れた現象、行動だけで判断し
たり理解したりしているようです。
自分自身についても見えない部分、ステルスには弱いん
ですね。心の中の見える部分、見えない部分というのは
次のようなことです。言葉に出して喋ったり書いたりし
たことは目に見える部分です。しかし音声や文字にする
前の心の中で考えた言葉、想いはステルスですね。まず
自分自身が心の中で何を呟き語っているか、このことに
ついて無頓着(むとんちゃく)な人が結構いるようです。
この心の中で一人で語る、呟(つぶや)く、喚(わめ)
いていることをきちんと自分で把握できている人ももち
ろん普通にいらっしゃいます。
しかしそのように自己の内面に目を向ける人であったと
しても、そもそもなぜそのような心の中の言葉やつぶや
きが出てきたのかについてまで注意を払う人になると、
これは激減してしまうようです。なぜならその部分こそ
本当の意味でのステルスじゃないですか。
私達の意識が、何かを体験する。その体験は言葉になら
ない体験そのもの、衝撃そのものなんだ、と仰ったのは
明治大正時代のインテリ青年に衝撃を与えた名著「善の
研究」のなかで西田幾多郎先生のお言葉ですね。
我々は一秒一秒この身体を通して見たり聞いたり感じた
り様々な体験をして参ります。それらの体験は一つ一つ
が人を感じ社会を感じ自然を感じる体験なのですが、体
験そのもの正確に言葉にすることはとても出来ないこと
です。
とても出来ないことなのですが、私達はさまざまな体験
を「あんなことを言われた、こんなことを聞いたり見た
りした」というふうに言葉にして認識していきます。こ
れが私達の意識の性質ですね。
そして実は私達が体験を言葉として認識した瞬間に、私
達にとってその体験の意味・善悪が決まってしまうので
す。
例えば遊園地のジェットコースターに乗る体験をしたと
しましょう。その体験自体を言葉にすることは難しいの
です。だってですよ、それを言葉にしようとしますとで
すよ「最初○○m/sの加速度で動き出してその瞬間手
すりをつかんで右方向○○度の角度にやや身体をねじっ
て下を見ていた私の身体は○○の方向にちょっと押され
るような力を感じてその瞬間私はなぜだかうわっと心の
中で呟いて……」みたいな感じで最初の一秒だけでもそ
の体験を全て描写しきることは困難を極めます。
そこで「動き出したときうわっと思った」と言葉にしま
す。
そうしますと私にとってのジェットコースターが動き出
したときの体験が確定するんですね。
そして頂上まで登り切ったコースターがいよい猛烈な速
度で下降を始め右に左に様々な加速度体験をすることに
なります。さんざん猛スピードで走り回ってやっと停止
位置に戻ってきまして降りたときに私達はまたこのジェ
ットコースター体験を心の中のつぶやきだったり、友人
や家族に声をかけて言葉にするわけです。「ああ、面白
かった」とか「ああ怖かった」とか。
そして「楽しかった、また乗りたい」とか「怖かった。
もうこりごり」とかいうふうに人によってジェットコー
スター体験が意味づけられてゆきます。同じ体験をした
のになぜ人によってその体験の意味が違うのだろうか、
不思議に思いませんか?当たり前だと思いますか?
私はこの違いは選択の違いだと思うんですよね。
「面白い」と言葉にした人は、実は別に「面白い」と思
わなくってもよかった。「つまらん」でもよいし「素敵」
でも良いし「アホらし」でも良いし「危険だ言いつけて
やる」でも良いし「うちに一台ほしい」でも良かったん
じゃないの?
きっと貴方にとってジェットコースターに乗ったときの
体験は「楽しい。また乗りたい。また来たい」で確定し
てると思うんです。でなきゃUSJやディズニ-ランドが
あんなに流行ってるわけが理解出来ないですもの。
まぁ私は「怖い、乗りたくない」派なんですけどね。
このように同じ体験であっても、その体験を言葉として
確定したときに人によって全く別の意味を持つ体験とし
確定・定着してしまう可能性がある。綺麗なお姉さんに
ムチでしばかれたときに「痛い!やめて!」になるのか
「シビれる!もっと!」に分かれてしまう、みたいな。
我々はこのように個人的な体験だったり集団的な体験だ
ったり様々な体験を繰り返しています。それはいまシリ
アやウクライナの国民が体験しているような大変な体験
だったり私達日本の国民が体験しているようなジワッと
大変な、それでもなんとかなるさと安心感のある体験だ
ったり色々なんですが、実はそうした体験をどう感じど
う行動するかは個々人の選択に任されているわけです。
よく考えると私達は一瞬一瞬止むことの無い体験の連続
の中にいるんですね。そして一瞬一瞬それらの体験をど
う受け止めるか意識の選択をしているのが現実です。
これが「選択の自由」ということの意味です。
仏教では「受想行識」と申しますが、「受」というのは
この私達の様々な体験を指している、ということがいえ
ます。私達は日々一分一秒様々な体験をし続けている。
それは毎日一向に変わらないような体験に見えたり、あ
るいは目まぐるしく変化するスピード感にあふれた体験
だったり、それぞれの人の置かれた立場によって違う体
験をすることになるわけですが、どちらにしろ体験、即
ち「受」が途切れることはない。
そして「受」があれば意識は「想」、即ち思い、考える。
言い換えると体験があると私達はそれを心の中だったり
また誰かを相手に「言葉」にして発するのです。言葉に
することによって意識はその体験の意味を決定し、その
瞬間に意識エネルギーは「仕事」を始めるのですね。
したがいまして一瞬一瞬私達がどのような想いを選択す
るのか、どのような言葉を心の中で呟きまた外部に吐き
出すのかが私達の創造力の行使そのものであるといえる
でしょう。
私達にとって選択の自由こそ創造力の根源であるといえ
るといえると思います。
そして面白いことに世の中を観察しておりますと、いか
にしてこの選択の自由を奪おうか必死になっている人た
ちもいるんですね。いやいやうっかりすると自分自身が
いつの間にか人の選択の自由を奪おうとしていることが
あるので笑えません。要警戒です。
こう考察してきますと選択の自由を奪う想念や行為は本
人は良いことをしているつもりのことも多いのですが霊
的にいって非常に罪深いものだといえますね。
どういうふうに選択の自由を奪おうとするかというと割
とお決まりのフレーズがあるんです。その一つが「○○
するのが常識でしょ」とかいう言い草ですね。確かに常
識は大事なのですが、その言葉の裏に「お前は勝手な思
いをするな、私の想いに従え」って圧があるんです。こ
ういう風に言われると二人称関係が成り立っていますの
でうっかり聞き過ごすと大変で相手の術中にはまってし
まいます。よく対処を考えてみないといけませんね。
さらによく気をつけたいのは、これ、ついつい自分もや
ってしまいがちになることなんですよ。要は相手のやり
方、考え方が気に入らないと(つまり相手が間違ってる!
と感じたり思うとき)、ついつい相手を自分の思いどお
りに思わせよう、従わせようとしたくなるんですね。つ
まり相手に強制したくなるんです。
そしてうっかりすると上と似たような言い方をしてしま
うことがあるんですね。対話と強制は似ているけれども
全然違います。原則として強制してはいけないんです。
それは相手への尊敬を欠くことになるからです。
「○○するのが常識」と言葉は同じ言葉を発していても、
対話しているときと強制しているときとは根底にある想
いが違うのです。さらに言うなら、「○○するのが常識」
という言い方はほとんどの場合相手を咎(とが)める意
識があるから出てくる言葉です。強制してなくて、相手
に良くなって欲しいと思っての言葉だとしても「咎める」
とは「間違っている、許さない」っていう意識ですよ。
そういう意識から出た言葉は抵抗や衝突を生んでしまい
ます。なぜなら「許さない」という相手という存在を否
定するエネルギーが入っているからですね。
存在の否定、あるいは存在の差別はダメな思想なんです。
だって存在は平等なんです。人間は平等だって言います
けどね、さらに進んで言えば存在は平等なんじゃないの
かい?で、この世界において人間が全権をになってるわ
けなんですけど、そりゃ全ての存在が協力してくれてる
だけなんじゃないのか?
まぁその疑問は措(お)いておくにして、人間は平等だ
っていうのは本質的な原理だと思うんですよ。この問題
はまたあらためて考えてみることにしていまは引き続き
観察と考察を進めてみましょう。
人間は自信の存在を否定されるのは本当に嫌なんですね。
そして存在を否定されるのは本当に嫌だし最大の侮辱に
なるので、相手の存在を否定する行為をしてはいけない
というもっとも基本的なマナーが、案外分かっているよ
うで理解されていないように思われます。
どういう場合かというと、上の立場の者がしばしばやっ
ちまうんですね。親とか教師とか上司さんですね。指導
しているつもりで無意識で強制やってることがあります
ので上の立場に立つ人は要注意です。
横道にそれてしまいました。私達が生きてゆくというこ
とは「受想行識」のサイクルを回してゆく事に他ならな
いのですが、私達がこの三次元物質世界にいる最大の意
味はこの「受」という体験をするためではないのか?と
も思えるのです。
「受」という体験によって私達は想念の「選択の自由」
を駆使します、「受想行識」の「想」の部分ですね。そ
してその選択そのものがすでに創造的行為でもある、と
いうことなのです。
私達は自分自身をふり返り理解しようとしたときに実際
に発せられた言葉や行為を中心に自分を理解しようとし
がちであります。
そしてその前段階としてあった「想念の選択」という問
題はステルスとなってあまり気がつかれなかったり無視
されたりすることが多くなっています。
さらに深く考えてみますと上の例だとなぜジェットコー
スターに乗る体験に対して私は「怖い、乗りたくない」
という想念を選択したのか?という疑問が出てくるわけ
ですよ。ここに更に深いところにステルスの存在がある
ことに気づきません?
さて話は一旦休憩であります。
>246 の続きです。師匠はエネルギーがどんどん自動で
流れ込んできたんならいいんじゃないのか?なぜしんど
いんだ?って話の続きをしておきます。
そりゃ貴方、エネルギーは単純に多ければよいってもん
じゃないんだってことですね。
エネルギーを受け止める器は身体であるわけですよ。同
じ身体と申しましても鍛えた身体と鍛えてない身体には
その能力に大きな違いがあるようにエネルギーの受け止
め能力にも違いあるわけです。
もちろん師匠のエネルギーの器は大きいはずなのですが、
意図しないエネルギーが常時流れ込むのはきついという
ことなのです。
それとエネルギーの大きさの問題もありますね。例えば
私達にとって秋や春の穏やかな日光のエネルギーは心地
よいのですが、少し強い夏至の頃の太陽のエネルギーは
疲れます。同じ事が言えて、意識エネルギーの強さにも
やはり適切な範囲があるということですね。何事も適度
を超えると苦痛にしかならないということのようです。
では今日はこれで失礼して続きは又他日。
こんにちは。
立憲民主党という政党の党首殿がウクライナのゼレンス
キー大統領がらみで以下のような発言をしたそうです。
「ゼレンスキー大統領による日本の国会での演説。
他国指導者の国会演説は影響が大きいだけに、オンライ
ン技術論で論ずるのは危険。
私は日本の国民と国益を守りたい。だから国会演説の前
に『首脳会談・共同声明』が絶対条件だ。
演説内容もあくまで両国合意の範囲にすべき。それが当
然だ。」
これが人の心から選択の自由を奪おうとする「強制仕草」
というものでよ。
「でよ」ってなんだよ。「ですよ」の誤記ですね。
こういうふうに「絶対」とか「当然」とかいう言い方は
相手の人を支配しようとするときに使われる呪いの呪文
なんですよ。人の心の自由を奪って自分の考え通りに動
かしてやろうってときの魔法の言葉なんですね。「○○
するのが常識」「○○が当然」「○○が絶対だ」「人は
みんな○○と言っている」「○○がルール」。共通して
いるのは全部自分の頭で考えさせないようにしようとす
る言い草なのです。
このような言葉を投げかけられますと、それが対面であ
ってもSNSであっても、それを受け止めた瞬間にエネル
ギー関係が生じてしまうのです。受け止めた「私」自身
と相手もしくは相手の言葉のエネルギーとの間に紐で結
ばれるかのようなエネルギー関係が生じてしまいます。
これが二人称関係ですね。
要は「相手」と認識した瞬間にそこに関係性が生じる。
それはエネルギー的な関係であって、単に気のせいとか
気にかかるなどというものではなく、そこにはエネルギ
ー的な実態があるのだ、というのが私が意識エネルギー
経験から得た見解であります。
そしてこの二人称関係を利用して上手く人を支配しよう、
うまく人を利用しよう、自分の思いどおりに人を動かそ
うと考えるような人が周りに多ければ多いほど、生きて
ゆくのが心がしんどくなる。
逆に相手のことを尊重してくれるような人が多ければ多
いほど楽しく幸せに生きてゆく事ができるわけです。
だってですね、利用しよう、支配しようというのは相手
が自分のエネルギーをかすめ取って使おうとしてる行為
なんです。しかも自分のエネルギーをかすめ取るために
自分の存在の尊厳を否定しようってわけですよ。
人間の尊厳の根本はどこにあるのかと追求してゆくと、
この意識の選択の自由に行き着くと思うのですね。意識
が「個の意識」であるためには自分自身の「選択の自由」
がなければなりません。それを否定する「強制仕草」
「押しつけ仕草」の言葉は、自己の存在を否定しにかか
る残酷な言葉である、といえると思うんです。
自分を否定されればされるほどしんどくなるのは当然で
すよね。
ところがそのような残酷な言葉、根源的な罪の言葉を吐
くご当人は、往々にして自分は正しいことをやっている
と錯覚していることが多いものです。
立憲民主党党首殿も「日本の国民と国益を守りたい。だ
から……」と仰ってます。ご自分が倫理的にどんなに悪
の言葉を吐いているのか、微塵(みじん)も自覚はされ
てないようです。こういうイキった言い方は、あたかも
悪をただす正義のヒーローみたいに映って一部の人には
受けるのですが、よく考えて見ると人間理解の底が浅い
といえます。
なぜこんな言い草が出てくるかといえば、やはり「自分
が正しい!」っていう強烈な自己主張なんじゃないでし
ょうか?お前達は間違ってるんだー!っていう咎(とが)
める気持ちがあるからなんじゃないでしょうか?
私達がふり返ってみて、この党首さんのような言動を果
たして一度も無かったかどうか?「一度もそのような言
い草をしたことのなかった人だけこの党首を責めなさい」
と、もしイエス先生に言われたとしたら、きっと沈黙す
るしかないんじゃないか?あたしも散々心中で人を罵っ
たり、現実の言葉で「絶対」とか「当然」とか決めつけ
てたりしてたようなしてなかったようなムニャムニャむ
にゃなんですね。
ではそのような言動や心中のつぶやきをしたときに一体
どうしてそのような無慈悲な言葉がこころから出てきて
しまったのかを反省してみましょう。
そうしますと、意識エネルギーが確定されて心の中や口
から言葉として吐き出されるわけですが、その直前に
「はっ!」とか「あっ?」という気持ちがあって、その
「はっ!」とか「あっ?」を言葉にすると同じ「はっ!」
でも人によってどう言葉にするかの選択の違いが出てく
るのであります。個性による選択の違いがあるんですね。
同じように心の中で「はっ!」と感じる体験をしてもあ
る党首さんは「○○が絶対条件。○○にすべき。それが
当然」などという言葉を選択してSNSに投稿されますし、
別な党の党首さんだと全く異なる言葉になります。
例えば国民民主党の党首さんは
「ウクライナのゼレンスキー大統領のオンライン演説、
日本の国会でもやったらいいではないか。前例が無い
との理由で断るなんてあり得ない。モニターかスクリ
ーンを持ち込めばいい。前例にないことが起こってい
るのだから、柔軟に対応すべき。議員運営委員会で問
題提起したい。」
と発言してらっしゃいます。どうですか?立憲民主党
の党首さんの固い雰囲気と比べてこちらは随分柔らか
い印象ですね。強制する雰囲気がないですね。
こんばんは。
しばらく重荷に感じていたいくつかの仕事をやっと終え
る事が出来ました。霊的な仕事ではなくリアルのほうの
仕事です。また暫くの間は書き込みが出来るようになっ
たと思います。
さて、私自身はここ一年ほどエネルギー的関係性につい
て認識を深めております。そろそろ皆さんに発表してご
意見、ご批判を仰ぐ時機なのかなぁと思っています。
思い返してみますと、これまでエネルギー的なさまざま
な現象の話をしてきたように思います。ですからまぁす
でに助走はつけてきた、という感じでしょうか。
そしてふり返って考えてみますと意識エネルギーの問題
を理解するのに何が難しいかというと、目で見えない、
手で触れられない。つまり感覚の問題なんですね。
では意識エネルギーは通常での感覚では捉えることがで
きないのか?それは特殊な能力の持ち主だけが知ること
の出来る世界なのか?霊能者、霊能力の持ち主と呼ばれ
る人たちだけに許された世界なのか?というと全然そん
なことはありません。
意識エネルギーは誰でもが感じ、誰もが駆使できる、い
や、現実に駆使している能力である、といえます。
0(レイ)能力者の私が意識エネルギーを感じ、駆使で
きているのだから、これはもう皆さんもみんな感じるこ
とができ、駆使することができる力であることには間違
いありません。
ただ、手に触れることができない、目に見えないために、
みんな見過ごしてしまっているのですね。
意識エネルギーの存在になかなか気づけない、あるいは
気づいても駆使できないその原因は、手に触れ目に見え
るエネルギーと比べて、それが「微弱である」という一
点に尽きます。
そのためにエネルギーの流れや現象との因果関係を追う
のが難しい、といった問題があります。
私自身は2012年以来、「体との対話」というテーマの中
で意識エネルギーを追い続けてきましたので、ある程度
の知識と経験を蓄積することができました。まだまだ未
熟で知らないことだらけではありますが、それでも世間
ではまだあまり知られていない知識や、まったく語られ
ていないことについてもある程度知ることができ、語れ
ることが出来るようになってきたと思います。
世の中はいろいろと不穏なことが続いておりまして不安
を感じている方も多いと思います。しかしまぁ私は人間
誰しも死ぬときは死ぬのだし、死なぬ時は死なないもの
です。死ぬときにしんどい思いをしたとしたら、それは
まぁ嫌なんですけど、死んでも魂がなくなるわけもない
しあの世は心のままに快適なようです。
ぶっちゃけ私なんぞは小さいときはこんな不自由で空も
飛べない物質世界は嫌だ、早く死にたい、と思っていた
クチです。人間は我が儘なものなので、あの世があると
確信してしまうと「楽したい」と思ってしまうものなの
ですね。
ですから「あの世なんて無いんだ、死んだら終わり。生
きてるうちに楽しまなくっちゃ」という意見もあるんで
すが、そういう人たちにとっては多分そう考える方が人
生正しく生きられるのかもしれません。あの世があって
天国なんだよ、なんて考え方が迂闊(うかつ)に広まっ
ちゃえば楽をしたくて自殺者続出、なんて事態もありえ
ますからね。
あの世があるのが真実にしても、一気に世の中の考え方
を変えてしまうと危険です。生きるとはどういうことな
のか、まずはこの世における生の価値を理解しながら徐
々に方向転換ができたらと思います。
時事問題を考えるスレ >367 の続き
さて現代のように沢山の人々が大変な目に遭っていると
き、我々はどのように感じ思っているでしょうか。
真面目な人ほど、現実に向き合えば向き合うほど心が暗
くなる、という現象に悩まされていないでしょうか?ま
るでそう考えたり感じたりしない人は無責任で人間とし
て許されない人ででもあるかのように。
私はそのような考えは思考の罠(わな)、感情の罠であ
ると思っています。
そしてたとえ世界が業火に焼かれ覆滅(ふくめつ:ひっ
くり返って滅亡すること)に至るとしても、心は揺るぐ
ことなく愛と希望と感謝の中にいたいと思っています。
それは大変な立場の人たちに同情心を持たないとか、加
害を続ける人たちを許容して見ないふりをするとかいう
ことではありません。
大変な立場の人たちにはできる限りの援助をすることが
望ましいのはいうまでもありません。しかし出来ない援
助までしようとすることはありません。今これが自分に
出来る範囲の援助であると思えることをすれば良い、と
思っています。
世界にはあまりにも酷い現実、不条理というものが、あ
ちらにもこちらにもあります。あちらにもこちらにもあ
りながら、これまで私達の多くはその事実に気づきもし
なかったり、知っていてもあまり気に留めずに過ごすこ
とが出来ました。
なぜならそうした不条理や悲劇は、あまり私達の周囲で
語られたり報道されたりすることが少なかったからです。
もちろん日々のニュースの中には非道不条理な犯罪につ
いてもしばしば報道され、それらのニュースに怒りを覚
えることはあったでしょう。
しかしそれは犯罪という非日常の世界の出来事であり、
それらの事件に怒りを覚えたり被害者に同情するにして
も、ある意味TVや劇場でのドラマを見ているかのように
少し距離を置いた感覚で受けとめることができていたの
ではないでしょうか。
しかし現代は戦場の生の映像がそのまま茶の間まで届い
てしまいます。そうすると私達の意識はそうした戦場の
悲惨な現場と私達自身の間との距離感を失って、いつの
間にか重苦しい雰囲気にのまれやすくなってしまう恐れ
があるのです。
そうすると、「大変だ、なんとかしなくちゃ」などとい
う、何に焦っているのかわからない焦りのような気持ち
が心の中に起こってきたりします。
また戦場の悲惨な光景が心の中に焼き付いて、嫌なのに
忘れることが出来なくなったりします。そこで、これは
いけない、となんとか愉快なことを思い出そうとするの
ですが、愉快なことを考えようとすればするほど反対に
悲惨な光景が心のより深い部分まで浸透してしまうよう
な感じがしたりします。
こうなりますと実は精神的にはあまりよろしくない状況
になってしまいますね。
そういう場合は自分の心のメンテナンスを意識して行う
ことが大切だと思います。
それではこのような場合にはどのようにメンテナンスし
ていけばよいかというと、まず「大変だ大変だ」と思う
なら、何か具体的な行動を一つでもよいのでしてみるこ
とが大切なのではないでしょうか。
例えばウクライナ支援の赤十字の募金に応募するとか、
あるいは想念の支援、祈りの支援というのもアリですね。
そのように自分として具体的に出来る支援を一つしてみ
る。
そうしていま自分に出来る無理のない支援行動を一つし
たならば、あとは世界の多くの支援の意識にお任せして
日常生活に戻ることが大切だと思います。心の中に無限
ループの変なエネルギーを溜め込まないことですね。
もちろん、支援を継続してゆく事も良いでしょうし、そ
のほか自分が直面している別の多くの課題に向き合って
ゆく事も良いのです。
こんばんは。
極端にならない、行き過ぎないということは心の在り方
としてとても大切なことだと思います。
人の意識の基本的な働きには、物事を拡大したり縮小し
たりするレンズのような働きがあります。そのためにど
んな些細な事であっても一大事のように感じたり考えた
りしてしまうこともあります。逆に本当に大切なこと、
大変なことなのにどうでもよいように感じて投げやりに
対処してしまうこともあります。
このように知らず知らず極端に走って失敗してしまわな
いためにも、自分の心が行き過ぎた方向に走ってしまっ
ていないか、時々振り返ってバランスを意識することが
とても大切だと思います。
現在のように感染症パンデミック、想像を絶する残虐な
戦争、そして経済制裁から波及する今後起こりうる経済
混乱、さらに大規模な自然災害の多発……。不安な事件
が何重にも起こるとつい人間の意識はマイナス方向にバ
ランスを崩しやすくなってしまいますね。
ですからここでよく考えて心のバランスをとってゆくこ
とが大切だと思います。
大変だ大変だというけれど、そもそもこうした事態が自
分にとってどれほど関りがあるのか。それともよく考え
てみると自分自身の世界にはそれほど直接の関りはない
のではないか。
もし関りがあるようであれば、そこでできる対策や対処
をすればよいのです。
またそれほど直接の関りがないのであれば、当事者たち
は大変でしょうけれども無理のない範囲で支援して、自
分の生活にしっかり責任を持ってゆくことではないでし
ょうか。
まじめな人だと、このような現実的な対処は何か罪悪感
を感じてしまうかもしれないと思います。しかし実際は
こうした対処は罪悪感を持たないといけないような種類
のものではなく、むしろ霊的にも適切な対処であると私
は思います。
なぜなら心の中の気分、喜びや悲しみや不安や穏やかさ
などは、現実を作ってゆく強力なパワーだからです。
混乱した現実を生み出し広げないためにも、自分の心は
しっかりとバランスをとって自らの裡(うち)に平和と
穏やかさを確立してゆくことが先決だと思うのです。
この話は「自分軸を確立する」みたいな言い方で多くの
方により語られているように思います。実は私が空間の
話から存在の話をしているのも、実はこのあたりの道理
を説明したいという思いがあるのです。
ただ、いきなり道理を説明したところで表面をなでただ
けのよく分からない話になってしまうので、存在の話か
らしております。
ところで自分軸といえば最近気になったことがありまし
た。金曜日に乃木神社の前を通ったのです。日露戦争の
旅順攻略戦で有名な乃木希典大将を祀った神社ですね。
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板