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トーキングスティック板/2

454和解とは:2016/10/23(日) 07:06:47 ID:pafWAC6w

>>449 クリさん

吉田国太郎講師は「常楽への道」の序でこのように言われています。「三界三世を超えた物質の無い廣い世界の光明にとりあげられ、無執無縛、そのまま常樂の安住の地を與へられ、其の世界に生命の糧を惠まれて生きる喜びを歌ひつつ、幼児の歩みをすすめて来た消息の記録である」と。

その無執無縛のところから以下のように云われている。一節「光を見つめて」の冒頭に「困ると云ふこと、辛いと云ふこと、落着けないと云ふことは、自分の無明が其處に轉じてゐるのであって、誰が悪いのでもなく自分が悪いのである・・・一切は己の無自覚に依るものであり、全ての責任を負わなければならないのである」と。

この本が再版された昭和49年私はすぐに買い愛読書になった。当時静岡に特務講師を務め絶大な人気のあった松浦講師と云う人が居られた。講師会長でもありましたが。その松浦講師が教化部のロビーで「ほんとこの通りだよな〜」と話した事が有りました。県の全信徒から絶大な支持を得ていたそんな講師が、絶賛する「常楽への道」が昭和49年で僅か三版の発行なんです。「教義の変更」などという話が出ていますが、数多の書籍が出版されてい、全ての過去出版されたものはどこかの信徒の家にあるのです。どうしてそんなことが出来るものですか、出来やしません。

それより先に根本真理を求める信徒の少なさの方が問題でしょう。「常楽への道」の」新地に生きる」p165に

「神と神の顕れ、完全と完全の顕れ、実相と実相の顕れ以外何一つない世界であれば、【天地一切和解する以外に道は無いのである。】・・・・この世の眞實に到るとき絶対感謝が生まれてくる。絶対感謝に甦る時此の世の眞實がみえてくる。一つは道元の歩んで行った道であり、一つは親鸞の超えて行った道であった。そしてこれら二つを一つにした甦りの道が我等の行ずる神想観である。神想観は絶対感謝の行であり、此の世の眞諦をあきらめる行でもある。」と説かれている。


このような意味での和解をトキさんが説かれているのであれば素晴らしいことです。和解不要論の方々は神想観の行を徹底されることを希望いたします。


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