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トーキングスティック板/2
340
:
tapir
:2016/10/20(木) 16:20:33 ID:Cw7YWKn2
>>318
:「訊」様
>>これは、『国際教修会」でのご指導ですから、公式の見解と考えるべきです。このご発言は、従来の谷口雅春先生のご指導と矛盾するばかりか、「教えは卵と黄身の関係であり、教えの核心部分は変えない。私が変えているのは教えの周辺部分だけである。」という従来の谷口雅宣先生のご発言とも矛盾します。<<
谷口雅宣先生は、教えは卵の黄身と白身のようなもので、黄身の部分は変わらないが、白身の部分は時代によって変わると発言されました。
しかし、以下は黄身の部分の変更だと、普通の感覚の人なら、思うのではないでしょうか。
1、 御祭神の変更。
2、 経本を『聖経』の補強のために発行。
1、 について、生長の家総本山の主たる御祭神は住吉大神であるというのは、どう考えても黄身の部分で、これを変えることはできないはずです。
白身の部分として、時代に合わせてお祭りしたいということであれば、主たる御祭神は変更せずに、信徒から献資を募り、新たに付属のお宮を建てるという方法があったはずです。龍宮住吉霊宮のように。もちろん幽の幽なる神を顕祭できるかどうかという事について、信徒の支持を得るために、十二分に説明できるという条件付きですが。信徒の支持を得て、別のお宮を建てるという方法をとらなかったのは、明らかに「黄身」に手を加えたと言わざるを得ません。
2、 について、『経本』と名付けて『聖経』と同格に扱えと強制し、日本語の劣る文章を「補強」と強弁するのは、「黄身」に手を加えたことになります。
白身の部分であれば、『聖経』の解釈本の位置づけで、谷口雅宣先生の自由詩として発表すべきでした。
なお、仏教やキリスト教では、釈迦やキリストではなく、弟子が説いたものも経本や聖書の言葉になっているという人があるかも知れません。しかし、それは時代の流れを経て、それだけの価値があるから後世に残ったのです。
『経本』が『聖経』と同格であるかどうかは信徒が判断することです。 例えば、発表後数年たって、圧倒的多数の信徒から「毎日読みたいから『経本』にしてください」との声があれば、それだけの価値があったという事になりますが、発表後、数ヶ月で経本にしたことが疑惑を深めてしまったと思います。
もし、白身と黄身の話に基づくなら、時代が変わって環境問題が解決されたら、白身である『経本』も「造化三神」のお祭も不要になります。その時は、そこまで「経本」や「神様」を軽く扱ってよいのかという問題が残ります。
谷口純子先生の書かれている、時代によって、新しいことを加えて完成に近づけるという考え方は、黄身と白身の話とは矛盾すると思います。それは「黄身」を増やすということに他なりません。結局、「卵焼き論」に収まらない改革をしてしまったので、「御教え未完成論」に、宗旨替えしたのでしょう。
>>生長の家の場合を考えてみますと、もしかしたら多くの方は生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがあると思っている方があるかもしれません。けれども、「日々の祈り」が書かれ「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出されたのは、どういうことでしょう。<<
この表現が不味いのです。
私だったら、こう書きます。
「『生命の實相』40巻は、すばらしい教えです。谷口雅宣先生は、この教えに基づいて、現代の環境問題に対処するために、時代に合わせた平易な文章で、解釈本を発表しました。それが「日々の祈り」「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」です。谷口雅春先生の美しいご文章には到底及びませんが、初めて生長の家に接する方々には、入門書として親しみやすいかと思いますので、ご活用ください。これらの本が、『生命の實相』を読む入り口となればうれしく思います。」
これだったら、あまり反発を呼ばないでしょう。
しかし、実は、谷口雅宣先生に、自分は谷口雅春先生と同格と思わせるように、規定してしまった「組織教学」が、すべての元凶かも知れません。
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