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本流対策室/6

6537摩訶不思議:2018/09/14(金) 19:00:45 ID:yFqZCcK.

 〈昭和53年4月2目、生長の家本部道場の日曜大誌友会における講話。話者:岡正章〉

テキスト 『如意自在の生活365章』 の32ページ以下に書かれています。

≪“時間” いまだ発せず、“空間” いまだ展開せざる “無時・無空” の極微の一点――極微すらも未だあらわれざる一点においては、一切の 『引っかかり』 も、『曲がり』 も、『喪失』 もない――この一点を 『無字の一点』 というのである。『無の門関』 といってもよい。意識が現象の世界を脱してこの一点に乗ることを 『無目堅間の小舟』 に乗るというのである。

 すなわちわたしたちが神想観を修して、『吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る』 と念ずるときのその 『五官の世界を去る』 状態が 『無字の一点』 に坐することである。この 『無字の一点』は、単なる有無相対(うむそうたい)の 『無』 というような浅い意味ではないのである。それは 『相対無』 ではなく、『絶対無』 である。『無』 の門関に停(とど)まってはならないのである。≫


「意識が現象の世界を脱してこの一点に乗ること」「“時間” いまだ発せず、“空間” いまだ展開せざる “無時・無空” の極微の一点」にのる、そのときには「一切の 『引っかかり』 も、『曲がり』 も、『喪失』 もない――この一点を 『無字の一点』 というのである」といい、それは「『五官の世界を去る』 状態が 『無字の一点』 に坐することである」という。

目を瞑り坐している時だけ無時無空で、意識が現象を脱したようでも、目を開いている時、意識が現象を脱していないのでは、この文言は実相を生きる人間の言葉でなく、単なる説明の受け売りとなりませんか?

そうじて生長の家信徒さんの信仰は、意識上の物で、眼を開いて無時間無空間を生きているようには見えませんが如何でしょうか?一切の 『引っかかり』が無いと云われていますが、引っ掛かりだらけの生長の家の現今ではありませんか?


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