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実相哲学を論じる部屋

817トキ:2022/10/09(日) 03:00:54 ID:wE2Oj1fc
 毎日、「生命の実相」を拝読しておりますが、気がついたところを抜粋して、個人的な感想を申し上げたいと思います。


 「ともかく、わたしは皆さんとともに「生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上さんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。
 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。 聖書やお経も肉体のキリストや釈迦の言葉ではなく神の啓示が、キリストや釈迦の口からほとばしり出たからこそ尊いのであります。」

(生命の実相 第2巻 97ページ)

 ここで「わたし」とありますのは、谷口雅春先生であります。生長の家総裁であっても、道から外れると、具象化すると言われているのであります。

 「聖書やお経も肉体のキリストや釈迦の言葉ではなく神の啓示が、キリストや釈迦の口からほとばしり出たからこそ尊いのであります。」とありますが、それを言い換えると、生命の実相の言葉も、肉体の生長の家総裁の口から出た言葉だから尊いのではなく、神の啓示が生長の家総裁の口からほとばしり出たから尊いのであります。

 昔はその点はよく戒められていて、「中心帰一」とは、肉体の生長の家総裁の言うことに追随するのではなく、そこに真理があるから従うべきで、真理から外れた言葉には従うのは「中心帰一」ではないのであります。

 とにかく、谷口雅春先生ご自身が、「自分の言うことが絶対である」と書いておられず、間違ったことをしたら、自分でも道から外れたらそれが具象化すると言っているのです。ましてや、信徒が、間違ったことをしたら、たちまち具象化するのであります。

 信徒は、ここに生命の実相などの聖典を典拠にするべきであると思う次第であります。

818トキ:2022/10/09(日) 20:41:43 ID:wE2Oj1fc
「生長の家」の説くは机上の空論ではなく生命の法則であるから道すなわち生活であるのである。この法則を自分自身の生活に生きるとき「生長の家の生き方」として展開し、他人の生活におよぼすとき隣人への愛行となる。ここに一つの道は展開して生活となりさらに展開して愛行となるのである。愛行のうちに生活があり、生活のうちに道があり、道と生活と愛行とは三位にして一体である。道が生活の上に悟られるときそれは救いの相をもって顕われ、メタフィジカル・ヒーリングとなって、健康境週性格の改善等をおのずから成就する。

生命の實相 第1巻 8ページ

 統一協会などのカルトが世間では糾弾されています。これらの教団は、「人間は罪の子」と教えて、恐怖で支配する宗教で、谷口雅春先生は、「宗教強盗」と喝破されました。

 しかし、生長の家でも、これを他山の石として、謙虚に反省するべきだと思います。宗教をすることが、何か異常なことであるような雰囲気が世間にはありますが、この原因は全て宗教者にあると思います。生長の家でも、戦前、谷口雅春先生がご指導をされていた時期には、この点は行き届き、ごく普通の生活の中に真理を実践するような姿勢が尊ばれました。

 それが、組織が大きくなると、組織を維持することが至上命題になり、組織の都合を信徒に押し付けるようになりました。最近になると、石を拝んでありがたがる異常な信仰を本部が言い出し、それを一部の狂信的な信徒が実践するという異常な状態になっています。

 ここに、私達は、生長の家の信仰の原点に戻り、信仰の本質は、一人一人の「神の子」の自覚であり、生活の向上であると言うことを認識することかと思います。

819トキ:2022/10/12(水) 11:07:10 ID:wE2Oj1fc
 これを消費者側からいいますと、信仰心の深い人は「もったいない」ということをよくいわれますが、なんでも買わず使わずに不自由をがまんして窮屈な生活をしている方があり
ます。 「生長の家」ではそんな節約ぶりには大反対であります。どんなものでも元は神さまが作ってくださったのだからもったいない――そのところまでは同じでありますが、次は
います。わたくしどもでは、つかわないではもったいないからできるだけ生かして使えというのであります。与えられていないものまでを無理をして使うのはいけませんが、写
えられているものを生かさない節約は人類の敵であります。われわれが生命力を出して仕事をした。その仕事をだれも使ってくれなくてはその努力が生きて来ません。物を生かし
て使うということは、人がそれをつくるために注いでくれた生命を生かすということになります。

 この世は持ちつ持たれつの世のなかでありますから、人の注いだ生命を生かすことが自分の生命を生長向上発展さすことになるのであります。

頭注板 生命の實相 第2巻 189ページ

 先日、本部から届いた通達を見たら、

 「この間、機関誌につけて送った”世界平和の祈り”新バージョンを印刷したケードを破棄してください。

 新しいカードを送ります」

とありました。

 なんでも、カードの下部に Seicho-no-ie という文字を印刷するのを忘れたので、全部破棄して印刷して送り直す、という話だそうです。以前、日時計日記のWeatherの誤植を指摘しても無視して、翌年、しれっと直したのと対応が違います。しかし、これはもったいない話だと思います。

 が、逆に、あれをしてはいけない、これを買ってはいけない、というのも、窮屈だし、必要なものを買わず、不要なものを溜め込むのも、循環を止めることになります。

生長の家の要諦は、「感謝」であります。

 私は、昔、ものを買うのも、ものを売るのも、「感謝」の気持ちが大事だと教わりました。この気持ちがあれば、何を買っても、買わなくても、自由だと思います。


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