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実相哲学を論じる部屋

768曳馬野:2016/12/16(金) 16:53:42 ID:MSCllY4.
自分に無いものは相手に幾らあったからとてそれが判らない、聖者は他(ひと)の惡を見ないと云ひますが、それは聖者が惡を見ないのではない、聖者は自分の内に惡がないから、他人(ひと)の惡が見えないのであります。

他(ひと)を常に批評的に観て、『あの人はあんな行ひをしたから、それは必ず斯ふ云ふ惡い動機からしたのであらう』と、常に想像を逞うしてゐるやうな人は、その人自身の心に『惡』があるから、相手に惡があると判るのであります。

さうすると、他人の心情の『惡』が目につく人は必ず自身の心情に『惡』がある証據であるから、決して他人の『惡』を批評したりする資格がないのであります。

だから〈他人が惡いな』と氣がついた時は『それが判るのは自分の心のうちに惡があるからだな』と反省すべきであります。

黒住教祖は『たち向ふ人の心は鏡なり』と云はれましたし、大本教祖は『ひとが惡いと思ってゐるのは皆吾が身が惡いのであるぞよ』と明快に平易な言葉でこの大真理を道破してゐられます。

イエス・キリストもパリサイ人が罪ある女を石にて打たうとしてゐるときに、『汝らのうち罪なきもの彼女を打て』と、表面は道徳家でも審判(さばき)の心に満ちてゐる人の心には惡が宿ってゐると反省を促してゐられるのであります。 (生命の実相より)


『この大真理』と雅春先生が云われています。この真理に恥じないことをしていると言い切れる生長の家信徒の方はいるのでしょうか?


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