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実相哲学を論じる部屋
548
:
純粋教理批判
:2015/10/19(月) 14:20:30 ID:yPuEDcac
これが悪しきイデア論だ。
現代科学の発達はすさまじいものがあります。現代科学の宇宙観に比べれば、宗教が説く世界観は常識の範囲内でしかありません。
宇宙は11次元とされているのに、世界はなぜ4次元なのか。宇宙はいかにしてできたのか。これから宇宙はどうなっていくのか。興味深いテーマがそれこそ百家鳴争のごとく論じられています。
宗教の常識ではおよびもつかぬ高遠かつ深淵な思想が次々と説かれているという意味では宗教を超えたとさえいえる現代科学ですが、生長の家にかかろうものなら、「唯物論」、「人間知」、「二元論」のひとことで苦もなく否定されます。科学など何も知らないふつうの人々よりも最先端をいく科学者のほうがはるかに劣っているかのようにみなされます。
考えるべきは、こうした見方は一般社会ではおよそ成り立たないということです。生長の家に特有の現象であるということです。
生長の家に特有とおもえるこうした現象を支えるのが「悪しきイデア論」です。イデア論とは「おのれの言葉をもって真理となすこと」です。「人間神の子」と言えばこれが真理となるように、「現代科学は唯物論であるがゆえにすべて間違いである」と言いさえすればこれが真理となる。これがイデア論です。
「何が真理であるかの決定権は生長の家にある」と、まるでいわんばかりの傲慢かつ暴力的な見方です。一般社会に通用するような見方ではもちろんありませんが、教団の内部では支配力をもちうる考え方です。
このような支配力はどこから来たのか。何が支配力を支えているのか。支えているのが教理であるのはあきらかです。教理が傲慢かつ暴力的な人々を生みだしたのはあきらかです。教理がなければこうした人々が生みだされることはけっしてなかった。このことだけはいえるからです。
教理の誤読が問題なのでしょうか。それはちがうでしょう。「唯物論」である、「人間知である」、「二元論である」として一般信徒がある何ものかを否定したとしても、これをいさめるものは誰一人としていないのが誤読でない証拠です。
もしも一般信徒の行状が誤読によるものであれば、いさめる人がかならず出てくるはず。誰もいさめないのであれば(誤読を主張する訊けさんでさえ本流以外はいさめない)、信徒の行状は誤読によるものではなく教えを正しく理解した結果とみなされている証拠、ということになるでありましょう。
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