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実相哲学を論じる部屋

547純粋教理批判:2015/10/19(月) 12:48:58 ID:yPuEDcac
「教理にひそむ」ということでわたしが言いたいのは、教理には「かくされた仕組みがある」ということです。「かくされた仕組み」をふつうは構造と呼びます。構造とは、複数の文書に共通するパターンです。こうしたパターンは表立ってはあらわれていません。パターンはつねに文章の背後にかくれています。教理にも当然のごとく構造がかくれている可能性があります。

どういう構造かと言えば、二項対立を積み木をつみあげるように組み立てて、最終的に究極の真理を示す、という構造です。物質を超えた真理を追究する形而上学にはこうした構造が共通のパターンとしてみられる、ということがいわれているようです。

構造は表立ってはあらわれていないので、特定の文献を引用して示せるものではありません。文献の引用を要求する訊けさんは、表立ってあらわれた文字の理解には無類の力を発揮しますが、文字の背後にかくされた仕組みの洞察はまったく得意ではないようです。

そんな訊けさんを相手に構造云々を語ろうとしたのは無謀な試みであったと、今となっては反省するばかりです。文字の背後にかくされた構造は、一字一句を正確に翻訳したところでわかるものではありません。構造を知るには情の働きが欠かせない、とわたしはおもいます。なぜなら、構造は知性に向けて働きかけるのではなく、読み手の情に働きかけているとわたしにはおもえるからです。

訊けさんのような「情を排する」というような読みでは構造とつながることはできないということです。誤読の余地はたしかに少ないのかもしれませんが、そんな読みをいくら続けても文字を超えた世界へはけっして入り込むことができないと考えます。

「誤読」とは文字を超えた世界に入り込むことでもあるとおもいます。そうした世界に入り込むことの危険性が自覚されていさえすれば、それはけっして否定すべきことではないと考えます。

ところで、みなさま方とのやりとりは無意味であるとすでに証明されておりますので、批判や反論等があった場合でもやりとりはいっさいいたしません。


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