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実相哲学を論じる部屋

538曳馬野:2015/10/12(月) 20:52:54 ID:xov3Klaw

肉体をあると思い、それが自分であると思っておれば、如何に楽しげに如何に謙虚の如く踏み行われていても、その心は我の心である。・・・

私があると思うのが我であり、それは、肉体の無いことが本当に判然と魂に了得できないところから生じてくる妄念である。私が無くて、神の生命があると知ることが我の無い心である。・・・

「ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なる」とはこの境地である。此の境地の此の月は中天の一隅にあるのではない。虚空に満ちてあるのである。盡虚空際である。本当にあるものとは、すべてが此の様にあるのである。相対的にとらえたものは実在ではない。・・・

私と云う観念は無明である。私と云う観念に立つものは我であり、そのまま、この誤れるそのままにて、宇宙大とみるものは、我が宇宙大にひろがりて天地晦冥である。

説似一物即不中、かく語られた古の道の人は神の子であったのである。・・・

今如何に、神ごとが身につき心にしみ通っていたとて、私がと思う人は我の心である。神の叡智に照らしてみれば、身にもつかず、心にもしみ通っていない人である。・・・

私が神の子であると知るのが生長の家でない。これは現象と実相の混同である。現象と実相の混同、これ位宗教において重大な問題はないのである。私は無かったのである。神の子があったのであると知るべきである。現象と実相の峻別である。  常楽への道 より


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