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実相哲学を論じる部屋

460:2014/06/19(木) 02:31:38 ID:oeUx5MQw
追伸:

 ずっと考え続けているのですが、
聖典は、当初、“著者の無い書物”ということでしたね。その事実は、変らないと思います。
ですから、出来るだけ多くの方に読んで戴けるのが本来の目的だと思います。

寄付が目的で、『生命の實相』『聖経』等を、社会事業団が著作権を持つことになったそうですが、
それだけを持って、「生長の家」を継承したことになるのか考えました。

それでは、教団所有の聖典は、社会事業団側に無くても、正統なのでしょうか?
教団に残っている聖典は、聖典とは認められないのかというと、そんなことは無いと思います。


それと、「総本山」が無くても、正統足り得るのか、考えてみました。
「総本山」という事は、通常の宗教なら、お城の本丸のようなものである気が致します。
しかし、神示には、『生命の實相』が神殿であると書かれています。
ところが、それでも必要だということで、総本山が造営されました。

総本山は、無くても、正統足り得るのでしょうか、
それでは、雅春先生は、御判断を誤られた事になりませんか。

私は、正統であるためには、総本山は、必要だと思います。

これは、単なる“社殿”にはとどまらないと思います。

實相と現象をつなぐ方法になっている気が致します。


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