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実相哲学を論じる部屋
448
:
あめり
:2014/06/12(木) 10:53:04 ID:H3PMcaFg
合掌ありがとうございます。
遅ればせながら、光明掲示板を拝見させて頂き、
「コスモス様」や皆様の素晴らしいご愛行で、
谷口雅春先生御著の絶版のご著書を拝読させて頂けて感謝いたします。
bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1340
この「はしがき」を拝読しただけでも、やはり総本山がなくてはならないものだと思い、学ばせて頂いてありがたいです。
『大聖師 谷口雅春先生御著『類纂 神の真義とその理解―住吉大神顕斎の意義』生長の家本部編 謹写1「はしがき」と「目次」《完》
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=940
「われに姿かたちあるようにいう者あれどもわれは姿なきものである」と宣言し給える、絶対者としての神もあり、森羅万象の中にその姿をあらわいてい給う普遍的存在なる神もある。
その普遍的存在たる実相を媒介として、人間は神と霊交し、森羅万象の生命と互いに交通する、その霊的交通によって、われわれは森羅万象に向って話しかけ、意のままに楽園の天国を地上に建設することが出来るのである。
絶対者としての神は無言でわれわれに話しかけ給う。しかし顕現者としての神は、聴(きこ)える声でも話しかけ給う。顕現者としての神と吾々は交通し得たとき、神は吾々の“天の父”ともなって、人格的な神との交通が得られるのである。
その人格的な神との接触を、具体的に実現するために、神社や拝殿を造営して、神との人格的接触の“場”とすることも出来る。
その造営に必要な布施又は荘厳供養の実践によって、人間は“愛”というものを生活の具体的営みの中に体験し、霊魂が進歩し向上するのである。
神は“一”であると同時に“全”であり“多”である。“一即多”“多即一”であり、一神即万神であり、一仏一切仏である。
しかし神は自己の個性化的顕現をもって、自己内在の無限を表現し給うのであるから、同一個性をもって万人又は万物があらわれることを嫌い給うのである。
それ故に“一神即万神”として色々の使命をもつ神々を顕現し給う。また“一仏一切仏”として無数の如来を顕現し給い、その使命又は役割も、個性をもって各々異なり給うのである。
住吉大神の如く宇宙天地の万物万生を浄め給うて、地上に天国を建立(こんりゅう)する使命をもち給う神もあるのである。
最近私は、日本の国情が混乱汚濁(おじょく)して、日本国本来の美しき荘厳なる秩序がなくなりつつあることを憂え、住吉大神を鎮護国家、無限の宝蔵を開顕(かいけん)したまう“場”であることを希(こいねが)いて、
龍宮住吉本宮を、九州長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡西彼(せいひ)町の“大神(おおかみ)平(だいら)”と称せられた土地を朴(ぼく)して、建立したのである。この地を彼杵郡と称したのは、嘗て天から神の祝福の黄金の杵(きね)が降って来たという故事にもとづくと謂(い)うことである。
吾々人間の礼拝の“場”が出来ることは、神がそこから祝福の霊派を放送し給う“放送局”が一局増加したようなものである。
詳しいことは本文を読んで頂いて、神人の関係を尚(なお)一層(いっそう)よく認識して、諸賢が、龍宮無量の寿福を享受(きょうじゅ)し給わんことを庶幾(しょき)して、この前文を擱筆(かくひつ)する。
昭和五十四年一月十六日
著者しるす』
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