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実相哲学を論じる部屋
276
:
志恩
:2014/03/24(月) 20:58:11 ID:.QY5jUA6
「自然破壊」は、「西洋化」から来ているという以下の、ネット情報がありました。
個人の自由と自然保護
西洋技術文明による地球征服
「個人の尊重」つまりヒューマニズムの精神は、個人の自由意志が最大限に尊重されなければならないことを主張する。
しかし、民族または国家内部の「個人の尊重」が重視される反面において、他民族、他国家の「個人の軽視」が行われてきたことは、
西洋技術文明の地球征服、すなわち「国際化」の歴史が証明している。 現在の地球環境問題は、西洋技術文明の単なる国際化ではなく、
アメリカ土着民をはじめとする数え切れない人々に対する迫害・侵略の産物といってよい。
わが日本も、明治以降、国家を挙げて文明「開化」して西洋技術文明の仲間入りを果たし、この迫害・侵略の歴史に加担してきた。
民主国家となった戦後日本も、その飽くなき経済追求によって、公害を垂れ流し、熱帯雨林を開発するなどして、地球文明の西洋技術的一元化を推進した。
自由と責任
個人の自由は、当人が責任を取る限りにおいて保証される。自由と責任の抱き合わせはヒューマニズムの基本前提としてよく知られている。
しかし、現実に行われてきたことは、法を守る限りにおいて何をやっても自由だ、ということだ。だが、国内法にしても国際法にしても、
時の権力に都合よくできているから、自由と抱き合わせにされた責任が「法を守る責任」なら、
被抑圧者の幸福を侵害する自由はいくらでもある(すべての法がそうであるわけではないが)。
だが、これは明らかに道徳的な「個人の自由と責任」のレベルからすれば次元が低い。道徳的には、
個人の自由は他者の幸福または人権を侵害しない限りにおいて保証されなければならない。
つまり、他者の幸福を守るか、少なくとも侵害しないという点が、個人の自由に伴う責任なのである。
人間が部族単位で生活している限り、「他者の幸福」と各自の行動の関係はとてもはっきりしている。
しかし、社会が重層化し、ましてや国際化すると、この関係はとても不明瞭になってしまう。行動の及ぼす波及効果が間接的になるからだ。
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