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web誌友会参考文献板

1トキ:2013/06/26(水) 09:56:44 ID:bcz1wXIA
web誌友会参考文献板 です。

 このスレッドは、同じ掲示板の「web誌友会」の参考になるような聖典やご高弟様の誤文章を
紹介するための専門の板です。原則として、web誌友会の指導講師や司会の方以外の方の投稿は
ご遠慮下さい。どうしても投稿を希望される場合は、事前に、場合によっては事後に、講師、司会
または管理人の許可を得て下さい。許可のない投稿は、他の適当な板へ移します。

 あらかじめご理解下さい。
 
 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

4復興G:2013/06/26(水) 15:06:56 ID:AB6RqYXc

合掌 ありがとうございます。

元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。
53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。

これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」宛に送っておられたそうです。

検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから「提言書」を募集していたのですが、「優秀提言の選考と褒賞」の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。

今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に「今」――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。

「web誌友会板」は、『生命の實相』をテキストとして生長の家の真理を深く学ぶことを目的にしていますが、この榎本先生のご文章は、『生命の實相』の神髄を理会するためにも、読めば非常に助けとなるものだと思います。

それで、ここに「web誌友会参考文献板」を開設していただきましたので、まずは

榎本恵吾先生を偲び、感謝をこめて、その
『神癒の展開としての人類光明化運動』 のご文章を掲示させていただきます。

最初に、すでに「web誌友会板」に掲示させて頂いたものをまとめて転写させて頂き、明日からは毎日、その続きを1日分ずつ、ここに謹写掲載させて頂きたいと思います。

ありがとうございます。 合掌

5復興G:2013/06/26(水) 15:08:15 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          一

 生長の家の根本聖典である『生命の實相』には、あの「人類光明化運動発進の宣言」が載せられていないのは何故であるか、ということは、まことに厳かな意味で一考を要することではなかろうか。

 さて、そのことはひと先ず別にするとして、『生命の實相』第一巻、本論の冒頭には、高らかに、

   生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

とうたい上げられているのである。

 生長の家人類光明化運動の根本聖典の冒頭において「神癒」について書かれているということは、生長の家人類光明化運動が神癒の展開として発進していることを意味すると同時に、ここには、その神癒とは何であり、如何にしてそれが起こり得るのか、ということが示されていると拝察させて頂くのである。

 神癒(メタフィジカル・ヒーリング)とは、生命の實相の自性円満を自覚した時に起こるところの、よろこばしき、明るきなにものか、であるということである。

 さて、神癒祈願部というのは尊師によって純粋宗教部門として出発しているのであるが、純粋とは何であろうか。純乎として純なるものとは、神であり、完全なる實在の相(すがた)であると言わなければならないのである。このことは、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動においては、この世界及び人間について、純一に、自性円満なる實相として観じられていなければならないことを意味するのであって、現象処理が大切であるという名のもとに、いくらかでも、實相独在をはなれて、現象を認めた上での人類光明化運動であってはならないことを意味しているのである。

 この運動は 「今起て!」 という啓示によって起った光明化運動であるが、その天の声は、

 「無いものは無いのだ。知れ! 實相のみがあるのだ!」 という極まった唯神實相の自覚がそこに現成した、そのところが 「今」 であり、そこに出発が成り立ったのであり、いささかも現象への妥協によってではなかったのであることをはっきりと確認しておかなければならないのである。そのことは唯神實相、實相独在、光明一元であり、救われていないものは一人もいないということであればこそ始まったところの運動であることを意味するのである。

 ひるがえって想えば、「人類光明化運動発進の宣言」は、現象世界の状況を認めた上での方便的宣言であると言わなければならないのではないか。こちらの方は、世界が不完全であればこそはじまった運動であるというところに方便的要素があると言うことである。これはつまり状況論であると言わなければならないのである。

 一方、『生命の實相』 の方は、たとえ、そのような状況が無くなったとしても、それを超えて、神がこの天地を必要性や状況への対処のために創造され給うたのではなく、神はすべてのすべてであり、完全であればこそ、その完全なる相(すがた)の自己展開として天地創造が行われ、神は今に至るも創造され、生長されつづけているという、その創造としての、久遠の創造のすがたとしての人類光明化運動であることがそこに顕われているといわなければならないのである。

 それ故、「人類光明化運動発進の宣言」 の方は、苦しみ悲しみがあればこそ起たざるを得なかったという方便的表現であり、『生命の實相』 の方は、うれしいからこそ起たざるを得なかった、ということになっているのである。

 このことは、世紀を超え、状況を超えた運動のあり様が謳われているということなのである。そこに 『生命の實相』 が根本聖典であるゆえんがあると拝察されるのである。ここに尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 に、「発進宣言」 を載せられなかったゆえんの一つがあるのではなかろうか、という想いに至らざるを得ないのである。(1998.7.1)


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