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Web誌友会 板/2

4982るん吉:2015/01/10(土) 21:38:05 ID:p..UGkhA
a hopeさま
すごいですね。実相が現れたんですね!
私はa hope様のように相手に感謝し続けれるかなぁ?グッとくる文章を読んだときは、感激して感謝できても
普段ずっとは難しいかな・・・でも常にグッとくる文章を読み続けていくことにします。
a hopeさんが貼ってくれた8巻の文ですが、

有難うございます。第8巻の文章は 私が探していた文章です。この頃生命の実相の
8巻は全然読んで無くて、解らなかったんですけど、苦労が有っても因縁・・そんな文章が
どこかにあったなあ。と思ってました。有難う。自分にピッタリ。ワード行でつね!あと、去年の暮れからワードに
写す作業をしていた時に見つけた文で、訊けサンがむか〜し書いてくれた文です

『人生は常に公平というわけにはいかないかもしれません。
しかし、醜い自己憐憫のマントをまとっていては絶対に勝てないし、
泣きごとの不快な響きは成功のチャンスを必ず追い払います。
そんなことはもうやめましょう。もっと良い生き方があるのです。』


ひとつ、ふたつの不平部分ばかりに、意識を向けてたら、他の沢山の恵まれている部分を見失ってしまう

ですね。本当に本当にありがとうございました。

4993るん吉:2015/01/11(日) 03:57:06 ID:p..UGkhA

4986 :自分が非難されるとすぐに削除他人の手を利用して非難するトキ:
                        2015/01/11(日) 01:24:57 ID:37HVEq.c

この>>4986から>>4992は曳馬野はんの貼り付けか・・

こんな貼り付け方したら、一瞬 私が「トキ」と呼び捨てにして書いたみたいになって

非常に迷惑!!うのはんと同じですね! 貼り付け方のルールを勉強しいや!

4994るん吉:2015/01/11(日) 04:05:56 ID:p..UGkhA
>>馬
>>これ「ブルンジ」経由 法的には誰が書いたかまず調べられない そういうことだよ誰が書いたかわからないと云うことは るん吉君


法的なぞ、どうでも良いよ!法的に調べる事なんざよっぽどの時だから。

法的にばれなくても、既に、あなたの「うのはなはん擁護」と「要支援2の取得方法も知らないくせに要支援2と言ったり」

等で、書込みをみれば、「あ、これ馬だ」とばれてます。その方が滑稽じゃん。

4995「訊」:2015/01/11(日) 07:01:11 ID:???



>>トキ理事長

 さて、敬愛する谷口雅春先生ですが「その先生を顕彰する誌友会スレ」です。そこに寄せられるバカな投稿ですが ―― いや、ズバリ書こう「バカである」と ―― 削除してください。騒ぐようなら私が鎮火、致します。先生の御前で汚物をばら撒く者や、汚物をばら撒いておきながら「私に発言を許さない」とか言う者、さらには、「私と和解できてイナイ」とか言う者・・・・・・そんな者あらば当方が、

 正 々 堂 々 と 論 破 

 致します。

 ですんでどうぞ、バカな投稿はすべて削除ください。私が責任持って論破、しますんで。



4996「訊」:2015/01/11(日) 07:09:17 ID:???


 再度言う。

 私が正々堂々と論破するから、かかって来なさい。

 新年からわずか11日目だと云うのに、この荒れ具合・・・・・当方は既に貴殿へ向けて、降魔の文を振るう覚悟だ。雌雄を決しようではないか。

5006a hope:2015/01/11(日) 12:04:49 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p117 9行目〜

谷口―― (略)
(p120 7行目〜)
聖典『生命の實相』や『甘露の法雨』を読んで、「人間は本来、神の子であって病気は無い」という真理を知れば胃癌でも治るというのは、病気は無いと知れば病念がなくなる、病念がなくなれば病念が形をあらわしていたところの病気そのものが消えるのは当然です。

「生長の家」の聖典を読んでも世間並みの考えの方をヨリ強くもっていられると、病気の念をもっていることになるので、その病気の念が、形の世界に顔を出して病気としてあらわれて来るわけですから病気は治らないのです。念でおもえば、念のとおりに自分に形をあらわすのが、自分の肉体とか境遇とかいうものですからねえ。

だからわたしは人に言うのです、『生命の實相』や『甘露の法雨』の聖典は幾回でも交替に繰り返して読むべきものであって、一回ぐらい読んで書いてあることの意味だけが解ったくらいでは駄目なんです。読むたびごとに自分の病念を破砕して、最後の無にまで、その病念を破砕しきったとき、忽然(こつねん)とその病気が消える。あるいは今後病気にかかるという可能性がなくなるのです。

映画の例でいえばフィルムに病気の絵が全然なくなったとき、舞台の方でも病気の映画が消えるのと同じです。だから心のフィルムに描かれて潜在している病念がことごとく完全に消え去るまでは、幾回でも繰り返して読んでいただけねばならぬのが「生長の家」の聖典であります。


野田――肉体が念(こころ)の顕現であるということを知るのはなんといっても体験ですね。わたしは近ごろひどい病気もしませんがちょっとした病気になったときに谷口先生のいわれる原理を応用して、精神統一をして自己生命の本来の病気のない状態を念じていますと、ある時間後にその念(こころ)のとおり肉体が健康になってくるのでその体験を得ています。

他人の病気を治すときには病人と両手をつなぎ合わして対坐(たいざ)して精神統一していると病人の幹部と同じ場所の自分の肉体に感応があります。その人の病気がお腹ならば自分のお腹にその病的波動を感じて変に痛くなってきたりするのです。

ところが、その痛みは実際にはない、病人の痛いという念(こころ)の波動が自分に感応しているのですから、今度は「病気はない、痛みはない」という観念に精神を統一していると「病気はない、痛みはない」という念の波動の方が、「病気は在る、痛い」という念の波動にうちかって、痛みが感ぜられなくなって恍惚としてきます。するとその病人の方の痛みもとれて、軽い病気なら一度で治ってしまいます。

この体験でも、病気というものは念の波動のアラワレであって念の波動が自己本来の無病状態にかえれば治るということがわかりますね。・・・

5007a hope:2015/01/11(日) 12:06:58 ID:cEpBaIdo

>>5006 a hope所感)

ここでの雅春先生と、野田氏の会話はわたしには非常に興味深いです。
というのは、わたしはこの野田氏の体験と似たような体験を過去に何度もしているからです。

自分に病気治療の能力があると思ったことはありませんが、亡くなった気功の先生からは、お世辞かもしれませんが、
「○○ちゃん(わたし)は、一緒にいるだけで周りの人を健康にする『気』の持主なんだよ」と言われていました。

ですが、「あなたみたいな体質の人は、常に神さまと繋がっていないととんでもない危険な(悪?)道に外れてしまう可能性があるから、
「神との対話」みたいな、真理の書かれている良質な本をいつも読んでなきゃだめですよ」ともいわれていました。

わたしは、『生命の實相』は「神との対話」以上の聖典だと思っています。

そして、<<「生長の家」の聖典を読んでも世間並みの考えの方をヨリ強くもっていられる>>ような、雅宣先生や純子先生のご著書や祈りの言葉は、
「生長の家」の「病なし」「罪なし」「迷いなし」の根本真理を眩ませて、信徒を迷わせる「虚説」であると確信しています。
(a hopeの個人的な見解です。)

5009a hope:2015/01/11(日) 12:31:27 ID:cEpBaIdo
>>5008 「訊」さま

「虚説」は本来ない説だからこそ、わたしたちはその説に和解してはいけないのだと思います。
いかがでしょうか?

5012a hope:2015/01/11(日) 13:25:52 ID:cEpBaIdo

虚説に和解してはならぬ

 虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説とも和解したとき、本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。われわれは天地一切の実在(もの)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事えることはできない」という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。

 「物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例は、かつて『生長の家』に書いたとおりであります。

 最近また「真我も迷う」の妄説に引っかかって、絶えて久しく煩わなかった頭部の湿疹になやまされて、すんでのことに医者にかかりそうになった時、初めて気がついた人があります。それは最近「生長の家」の説を受け売りして、少しばかり異色を見せて独立しようとして「迷いは真我より起こる」と発表した某々氏の雑誌を読んで、その妄説にまどわされ、真我は迷うものやら、迷わぬものやらわからなくなって、心が迷って、「本来清浄の実相」を見ることができなくなったことに原因するということを知り、神想観をして、本来迷わぬ「本来清浄の実相」を観ることを努めたところが、その頭部の湿疹が癒ってしまったという報告を受け取りました。

 「生長の家」の家族となり「真我は神であり、本来清浄の実相である」ということを知らされながら、時々そういう異端邪説に耳を傾けるようになるのが、これいわゆる「試みに逢わせられる」のであり、「引っかけ戻しの仕組み」であります。精神統一せんとすればするほどかえって雑念が浮かぶのと同じであります。この時に雑念妄想の方に心を傾けたら永久に精神統一しがたいのと同じように、この時に異端邪説に和解して耳を傾けたら、自分の実相が昧まされ不幸があらわれるのであります。

 「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現われたサタンに対しては、イエスはそのサタンの邪説に耳を傾けようとしないで、「神を試むべからず、サタンよ退け、主なるなんじの神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」と、一喝しているのであります。この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事うべし」ということです。そのほかの妄説妄想には決して和解して、耳を傾けてはいけない。ただ「サタンよ、去れ」と一喝しているところに、イエスの示されたる「サタンに和解すな」との範例をわれわねは見なければならないのであります。

以上、「訊ブログ」より転載させていただきました。感謝 合掌。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65589252.html

5013a hope:2015/01/11(日) 13:27:24 ID:cEpBaIdo

>>5010 「訊」さま

<<『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり>>
とありますが、わたしは、まさに、雅宣先生のご思想がこの二元論なのだと思っているのです。

二元論に惑わされてしまっている「生長の家」の総裁のご著書を読むことで、
その総裁に中心帰一を強いられている信徒も同じく二元論に惑わされることにならないでしょうか?

つまり、無意識に、自分の意志とは別に、「虚説」をつかまされてしまうのです。
実際、わたしも入信した後、その経験をしているのです。

それだけ、「生長の家」総裁としてのご発言は重大なのです。

わたしは、どう考えても、雅宣先生や純子先生が「生長の家」の聖典「生命の實相」の実相独在の真理を体得されるまで熟読されているとか思えないのです。


「訊」さま

わたしは、自分の主張を押し通したいからこの掲示板で雅宣先生や純子先生を批判しているのではないのです。

一日も早く、本来の「生長の家」の教えの素晴らしさを思い出していただき、本来の「生長の家」あるべき姿に戻していただき、
生長の家総裁副総裁として、本来の「人間神の子」の真理を伝える「人類光明化運動」を指揮していただきたいと願っているからなのです。

ですが、もちろん、わたしの方が野狐禅である可能性はあります。
ですから、わたしの見解へのご指摘、ご批判、なんでも素直にお受けする覚悟はできています。

5014a hope:2015/01/11(日) 13:35:52 ID:cEpBaIdo

>>5011 「訊」さま

雅宣先生は、〝現〝 生長の家総裁です。

今、現在もブログでご自分のご思想を信徒に向けて発言し続けておられます。

わたし自身の経験したことだけでいえば、それは過ぎ去った過去の話ですが・・・。

5016a hope:2015/01/11(日) 14:19:29 ID:cEpBaIdo

>>5015 「訊」さま

<<*「物質もある、心もある」という二元論と云うその物質もなく心もないのが生長の家ではないですか?唯物論でもなく唯心論でもなく
 唯神実相論であると云われている。にもかかわらず『二元論』なんて端から存在しないものを言揚げする先生は?>>


確かに「唯神実相論」が生長の家の中心真理だと思いますが、「唯心所現」も横の真理として雅春先生は説かれていましすよね?
『二元論』に関するご説明は、そちらの真理に関わっているのだと思います。
わたしは「人間の我の心はない」でも「神の子の心はある」と信じています。



<<*そのない心で一瞬に体験した、全て体験したと云う夢の中の出来事、人間の生死と同じ、生まれたことも死ぬこともない人間が、
生まれて死ぬと云う夢を見ている。あなたは生まれていろいろ体験していると思っているでしょう。そしていつか死ぬと。
生死が夢ならばすべての体験も思いの世界のものでしかないのでは。>>


この現象世界の出来事は、しょせん影ですから、確かに夢なのかもしれませんが、
せっかく神さまがこの現象世界にわたしを投影してくださり自由に生きるという経験をわたしにさせてくださっているのですから、
たとえそれが夢であっても、わたしは精一杯自分のできることをして生きて、神さまに褒めていただきたいです。

5017a hope:2015/01/11(日) 14:41:50 ID:cEpBaIdo

ところで、訊けさま

今日のweb誌友会の書き込みって、本当に全部「訊」さまご本人ですか?

5018トキ:2015/01/11(日) 15:01:27 ID:cQ90QTGI
>>5017

謹告

 本日のは、訊け管理人様の名前を勝手に使った
曳馬野さんのなりすましです。これは、卑劣な行為です。

 当該投稿を削除の上、厳重に注意します。
今後は絶対に他人のHNを詐称しないでください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5019茅ヶ崎:2015/01/11(日) 15:02:06 ID:???
私もそれが知りたいと思ってました
「訊」と「訊け」さんは同じ人?

5020茅ヶ崎:2015/01/11(日) 15:03:04 ID:???
>>5018
リロード遅れまして間抜けな質問してしまいました。すみません。

5021トキ:2015/01/11(日) 15:05:13 ID:1j83ED3E
謹告

 本日、この時間までの投稿は、訊け管理人様からの
投稿はありませんでした。

 ご注意ください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5022a hope:2015/01/11(日) 15:24:07 ID:cEpBaIdo

やっぱり、一連の書き込みは「訊」さまではなかったのですね。
なんとなく、文章の感じが曳馬野さまににてるな〜と思ってました(笑)。

ご感想やご意見をいただけるのはありがたいのですが、
なりすましは混乱するのでやめていただきたいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

5025a hope:2015/01/11(日) 17:45:48 ID:cEpBaIdo

>>5023

申し訳ありませんが、「訊」さまになりすましをしていらっしゃるような、
どなたかわからない方のご文章は拝見する気にもなりません。

真理を追究される前に、人としての道を正しく歩まれたらいかがですか?

夕食の支度があるので、失礼いたします。

5030トキ:2015/01/11(日) 22:39:07 ID:DdasF.5E
>>5025

a hope様

 本当に、その通りです。しかも、なりすましをするような人が
青年会の先達を自称するのですから、驚いています。

 こういう人たちに関わり会わずに、真摯に谷口雅春先生の教えの勉強
をしましょう。

5038るん吉:2015/01/12(月) 09:03:52 ID:???

>>物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例



現象有り、という説(妄説)を心に受け入れると、とたんに 上記のようになっちゃうんですね。

・・・・・

5039a hope:2015/01/12(月) 10:03:18 ID:cEpBaIdo

>>5038 るん吉さま

そうなのですよ!
だから、わたしは4年前からそのことに警告を発しているつもりなんです。
当初は本流宣言掲示板へ投稿していましたが・・・

雅宣先生のご文章や祈りの言葉の内容は現象や物質を認めてしまっているんです。

現教団の運営はうまくいっているのでしょうか?
病人が増えてはいないでしょうか?
人間関係はどうでしょうか?

心が調えば環境(現象)もおのずから調うというのが、本来の「生長の家の教え」なのだと思うのです。
そして、その教えを広めるのが人類光明化運動ですよね。

それなのに雅宣先生は人間の犯した罪だとか欲望だとか、破壊されつつある自然だとか、
そのような暗い現象面を最初に見つめるところから、運動を出発させてしまっているから、
その認めた通りの現象がこれからどんどんあらわれてきてしまうのだと思うのです。

よくこういうと、雅春先生も人類が苦しんでいる姿(現象)をみて人類光明化運動を始められたという方がいらっしゃいますが、
これは、復興Gさまもおっしゃっていましたが、まったく違うと思います。

雅春先生には最初に、完全円満な「実相世界のお悟り」があったのです。
そのお悟りの心(明るい歓びの心)を人類に伝え、地上天国を実現したいという使命感から立たれたのです。

雅宣先生の運動とは全く違うとわたしは思っています。

5040曳馬野:2015/01/12(月) 13:04:24 ID:???
 本当に、その通りです。しかも、なりすましをするような人が
青年会の先達を自称するのですから、驚いています。

訊け本人が何も言わないうちからなりすましだと判断し、削除と云いだすこの不思議さ驚き桃の木山椒の木

トキ=訊け なんかな そして教団の大幹部

5047a hope:2015/01/12(月) 15:38:54 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第15巻 p123 後から4行目〜

谷口――わたしは誌友の方に、推しつけがましいことをいっさいしようとは思っていません。「生長の家」は誌友が助かるために出現したのであって、わたしの生活費が助かるために出現したのではないのですから、誌友が自分で進んで聖典を欲しいと申し込まれるのでなければ送ろうとは思いません。

そうでないと義理に縛られて聖典をとるというようになられると「生長の家」で説く道が立たなくなるのです。誰かのためになるということが、そのためになったことをいいがかりにして、あとでその恩義でその人を縛るようなことにでもなると、始めからその人のために尽くさずにいればよかったということにもなるのです。

「生長の家」の生きる道は、人間を縛る道ではなくて、いろいろのものから縛られているその縛りからその人間を解放する道なんです。医学や衛生に縛られている人なら医薬や衛生から解放する、人相や家相に縛られている人なら人相や家相から解放する、因縁に縛られている人なら、その因縁から解放する。職業に縛られている人なら、その職業を乗り越えてなお生きる道があることを示す。

こういうように人間の生命を縛っているあらゆる束縛を解き放って「生命」本来の自由さを奪還させるのが「生長の家」の道なのですから、「生長の家」が誌友に対して少しでも押しつけがましいことをすれば、たとい聖典の売れ行きはよくなり、経済的に、「生長の家」が大きくなっても「生長の家」の道が立たなくなるのです。

5048a hope:2015/01/12(月) 15:40:56 ID:cEpBaIdo

>>5042 a hope所感)

この第四章の対談も、まだ、雅春先生がバキュームオイルカンパニーでお仕事をされながら、「生長の家」誌を発行されていた時のようです。
野田氏(第三章に出てこられた野田氏と同一人物でしょうか?)が雅春先生に、今の仕事をやめて「真理」の執筆に専念した方が、
「生長の家」も発展するし、「生長の家」の生き方にかなっているのではないかと、提案されています。

何年か後には雅春先生はそうされたようですが、当時はその提案を否定され、

<<人間の生命の偉大さは、その仕事の形の大いさで計られるべきものではないのです。欧州全土を征服したナポレオンの事業よりも、本間俊平氏が困れる人に与えた一足の草鞋(わらじ)の方が尊いのです。>>p138 後から8行目〜

といわれ、ナポレオンも偉大だけれども、それよりも、キリストが『兄弟のいと小さき者になせる愛の行為はわれにしたのと同じことである』
と言われたように、本間俊平氏のごとく今の自分にできることをして、目の前の困った人を助けることこそ、
神の御心にあった生き方であると教えてくださっています。

[
「生長の家」の信仰の基本ですね!

5059a hope:2015/01/12(月) 17:13:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p140 5行目〜

谷口―― 
(略)
「生長の家」の生活が我の生活ならわたしの定めたように進んでも行きますが、聖意(みこころ)を行わんがために出現した生活であるこの生活は神のみこころに従って千変万化するほかはありません。

我で貫きとおす自信と、大生命にバックされて大生命の流るるままに動く自信とがあります。ナポレオンの自信が前者ならば、「生長の家」の自信は後者です。

時が来ればわたしは会社員生活を止(よ)すことにもなるでしょう。また止さないかもしれません。いずれにせよ、それは雑誌を大きくするという野心のためにするのでは普通の雑誌業者になってしまいます。

わたしが今会社員でいるのは、人類全体が今はまだわたしに普通の会社員生活をしながらでも、自分も生き、人も助け、万人に光を与える生活ができるという範例を示してくれと望んでいるからです。

もうそんな範例は十分見せてもらったから、今度は会社員でない生活も見せて欲しいという人類の声がより多くなってくれば自然に神催(かんもよお)しでわたしの生活は変わってくるのです。それは自然に神催しにです。「我」で変えるのではないのです。

「生命」はどういう形でいけねばならぬということはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は「執して執せず」です。形というものは影であるから執する必要はないのです。「生命」が主です。「生命」さえわれかくのごとくして生きるという筋道が立っているなら、形は千変万化してもよいのです。

その反対に形は一つを貫いていても、形を維持することに「生命」の方が支配されていてはその人の生活は生きたものではありません。そうかといって形の方をむやみにやり方を始終変えてゆくのかというとそうでもないのです。しっかりと自分の魂の底に死んでも死なない生きとおしの生命が自覚されてきますと、自然に時に応じた最も適当な生き方ができてくるのです。

「我」の力で焦る生活、力む生活、こうでなければならぬと形を極(き)めすぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行き詰まるのです。幸いにして、その人が死ぬ瞬間までは行き詰まらないにしても、そのいよいよの瞬間には行き詰る。ナポレオンも行き詰り、豊臣秀吉も行き詰ったのです。いわんや雑誌経営の夢は捨てなければならないでしょう。われわれは死の時になってさえも行き詰らない生活をしなければならないのです。

形には執して執さず、ただわれわれの「本当の生命」が影を映して進む生活なら、死んでさえも行き詰らないのです。

5064a hope:2015/01/12(月) 17:17:23 ID:cEpBaIdo

>>5059 a hope所感)

「生長の家」の生活は、神催しの生活で自由自在なのですね。

<<「我」の力で焦る生活、力む生活、こうでなければならぬと形を極(き)めすぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行き詰まるのです。>>

『都会ではいけない、森でなければいけない』って本当に「生長の家」の生活でしょうか?

5067a hope:2015/01/12(月) 17:18:31 ID:cEpBaIdo

閲覧者のみなさま

わたしの雅宣先生批判などの投稿が気持ち悪ったら、読まないようにしてくださいね。
身体によくないですから・・・

ところで、今までずっと観察してきましたが、わたしが、聖典の真理に照らし合わせて雅宣先生の教えを批判すると、
曳馬野さまが激しいアラシを開始されるようです。
(わたしの思い違いならごめんなさい)

曳馬野さまって、初心者さまやさくらさまにソックリですね。

5077神の子さん:2015/01/12(月) 17:33:03 ID:3/GnsEUs
これほどしつこく妨害する曵馬野さんは
この掲示板に素晴らしい投稿があると認めているんですね。

5078a hope:2015/01/12(月) 17:35:12 ID:cEpBaIdo

トキさま

いつも、お世話になっています。
わたしは、曳馬野さま(「訊」さまを名乗る)から何を言われても大丈夫ですので、
ご心配なさらないでくださいね。

まだ、どれだけアラシが続くかわかりませんので、削除は明日にでもまとめてしてください。

トキさまの優しい心遣いには、いつも心から感謝しています。 合掌。


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