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Web誌友会 板/2

4567a hope:2014/10/28(火) 09:23:30 ID:brQxC10.

>>4566 a hope所感)

この文章の後、三つの事例が紹介されています。

①母親が息子を「健康の法則」で縛らなくなったとき息子の肺病が癒された実例。

②母親の「勉強させねばならない」の念波を捨て、「この子はよく勉強する子だ」と信じる気持ちになった時、
勉強嫌いだった娘が勉強好きになった実例

③形の道徳家であったキリスト教の牧師の妻が、浮気をし、その牧師を捨てて浮気相手に身を投じてしまった実例

どの実例も、相手を法則や形式で縛ってしまい、自由を奪った為に起きた不幸ですが、
①と②のケースは雅春先生の助言により、母親が心を変えることで子どもの本来の姿が現れました。

ですが③の悲劇の牧師さんの事例に対しては、雅春先生は周囲の人々にこうご助言されています。

「なぜ十五年も良人とした牧師からその妻がのがれたのか、それが問題です。
きっとその牧師は道徳家であって、その妻を縛ろうとしていたのに違いありません。
形の道徳家は不道徳家を作るのです。縛ろうとする時、ハミ出ようとするのが生命です。
今度もその情人を引き離そうと思って強制はしなさるな。
かえってその両人は反抗して強烈な力で結び合うことになるでしょう。
誰も縛らないで、生命そえ自身の衝動に信じまかせ切ってしまうとき、生命は正しく動くほかはないのです。
二人が離れるべきものなら自然に離れるでありましょうし、二人が即(つ)くべきものなら、
二人の前途をそのまま祝福してやらねばなりません」

ここで間違いを犯してしまっているのは牧師の妻ですが、この牧師の妻に「善(神の子)の自覚」つまり「本当の道徳観」があったならば、
このような悲劇は起きなかったと思います。

時々、「道徳的でなければいけない」の『ねばならない』に縛られた学校の先生や警察官がわいせつ行為等で捕まってしまうのも、
そういうことが原因なのではないかと感じました。

「善(神の子)の自覚」の伴わない形だけの道徳観(法則や形式)に縛られ続けたとき、
人間は衝動的に間違いを犯してしまう危険があるのかもしれません。
 

p117 後から3行目〜

<<真に「生命」それ自身の自由に委ねられるとき、「生命」は真を発揮し、
それが真であるがゆえに善を発揮し、美を発揮することになるのであります。>>


人間にとって『「人格の自由」が保障される』ということがどれほど重要なことであるかがわかります。


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