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Web誌友会 板/2

4229a hope:2014/08/28(木) 19:52:34 ID:cEpBaIdo

>>4228 a hope 所感)

宗教を信仰していて、一番怖いのがこの「偽我慢心」に陥ることではないでしょうか?
ですが、人間は何かに夢中になっていたりすると、この「偽我慢心」に陥っている自分に気づかないことが多いのではないかと思います。

そういうわたしも、聖典をお勉強していて少し「真理がわかった!」と思うと、相手の気持ちや状況も考えずに思ったことをすぐに発言してしまいます。

そえが、本当の「愛(善)」から出た言葉なのか、それとも「偽我慢心」による自己顕示欲から出た言葉なのか、自分自身よくわかりません。

ですが、「悔い改め」には「本物のわれ」と「ニセ物のわれ」の「篩い分け」が必要だとあります。

それは、なかなか難しそうですが、>>4201のユタカさまの投稿に、

「愛すること、感謝することが神の子なんだ、みんな神の子だから、愛したい、感謝したいと思っているね、
愛したり、感謝すると気持ちがいいのは、みんなの本質が神の子だっていう証拠だね。
どんなに都合の悪いことにも感謝できるのが神の子、自分の心を変える、観方をかえるんだ、現象は変わらなくとも自分が変わっているね。」

という加美野先生の素晴らしいお言葉がありますが、

<<どんなに都合の悪いことにも感謝できるのが神の子、自分の心を変える、観方をかえるんだ、現象は変わらなくとも自分が変わっているね。>>

というところに「篩い分け」のヒントがあるような気がします。


よく考えてみれば、現象を変えようとしてもなかなか変わらないけれども、心は自分次第でどうにでも変えることができますものね。

聖典や雅春先生の愛弟子といわれるような先生方のご著書を拝読していると、

「愛せなくても、愛するんだーーー!」
「感謝できなくても、感謝するんだーーー!」
「肉体はあるように見えても、無いんだーーー!」

みたいに、昔の「生長の家」の指導って、なかなか強引だったように感じます。
そんな雅春先生や講師の先生方のちょっと強引な指導を、昔のほとんど信徒さんは素直に「ハイ」と受けているのです。

だからこそ、心を変えることができて、和解が成立したり、病気が治ったりという奇蹟が頻繁に起きていたのですね。


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