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Web誌友会 板/2

3716 a hope:2014/02/15(土) 01:36:16 ID:cEpBaIdo
(>> 3715 a hope 所感)

ここには、<<『生命の實相』を読んでなお、完全に治せざる医療不治の慢性病が家族中にある場合には、・・・>>とあります。
生長の家の信徒ならば、まずは『生命の實相』を拝読し人間神の子の自覚を得ることが、
すべての大前提となるのだと思います。

ですが、実際には「生長の家」において、時代とともにその優先順序が狂いだしたということはありませんか?

これはあくまでもわたしの推測ですが、生長の家で『甘露の法雨』の功徳で奇蹟が続出しだすと、
信徒は『生命の實相』のような難しい本を読んで真理を悟る努力をするよりも、
「より簡単に現象問題を解決できる方法」=『甘露の法雨』の読誦 に頼っていってしまったということはないでしょうか?

たとえば、信徒が伝道するときに
「この『甘露の法雨』はすごい功徳のあるお経だから、携帯してるだけでも功徳があるよ」とか、
「意味は解らなくても、読誦するだけで救われるんだよ」
というようなことを、言っていないでしょうか?

実際、わたし自身、「甘露の法雨」の携帯版をそういって、子どもたち一人一人に持たせています。

ですから、そのことを批判するつもりは全くありません。

このことは、つい最近気づいたことで、自分自身が反省したことなんですがですが、
そういう心こそ、自分の魂の向上を妨げる「依存心」「依頼心」だったのではないかと・・・

>>3661で、トキさまが謹写してくださった、「神 真理を告げ給う」の抜粋文にも、

<<その一つは、人間は肉体そのものではなく、”神の子”たる霊的実在であるという
真理を繰り返して読む事である。読む事によって智的に自己の実相の尊さを自覚す
るのである。>>

と、「霊交の道を開くようにするため」の第一の条件として、真理の書(生命の實相)の拝読があげられています。

『甘露の法雨』にしても、その真理を理解していなかったら、
もしくは「生命の實相」を毎日拝読してその真理を悟ろうとする努力をしなかったら、
『甘露の法雨』を何百回、何千回、何万回読誦しても、ほとんど功徳はないような気がします。

それは、聖経『甘露の法雨』を補完(補足?)したと言われる「大自然讃歌」や「観世音菩薩讃歌」にも同じことが言えると思います。

まずは、聖典『生命の實相』の拝読、それがなくては、その二つのお経も、いくら読誦しても何の功徳もないような気がします。

すべて、わたし a hopeが個人的に感じていることです。
ですから、みなさまのご意見を是非うかがいたいです。
よろしくお願いいたします。


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