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Web誌友会 板/2

331復興G:2013/02/20(水) 08:01:48 ID:AB6RqYXc

>>330のつづきです。

初心者様は、総裁とはちがうと思いますが、総裁に共感し、共通の思いを持っていらっしゃるように思います。
それで申し上げているのですが、スルーしていただいてままいません。――

先日、床屋へ行ったときそこに置いてあったある週刊誌(週刊現代だったかと思います)で、曾野綾子さんが「イジメ」問題について書いておられたのを読みました。手許に資料がないので正確ではありませんが、

「イジメをなくするには教育制度の改革が必要だという議論があるが、制度改革でイジメはなくなるものではない。人間はみな、いじめることに快感を覚えるような性(さが)をもっている。だからイジメは大人の社会にも、どこにでもある。一方、どんな悪人にも、善性が宿っている。そういうことを前提に考えなくては、制度を変えても決してイジメはなくならないだろう。」
――ということを、体験をまじえながら語られていて、説得力のあるご主張でした。

初心者様は、>>308
>>これは唯心所現で片づく問題ではなく、構造的な問題と考えます。人をしてそのようにさせるなにかがある。これはその構造の問題であるというのがわたしの予想です。教えの構造。日本語の言語構造。わたしにできることがあるとすれば、これをいくらかでも分析していくことだけであると考えますが、いずれにしても、わたしには荷が重すぎる課題です。<<

と書かれましたが、私は「構造の問題」ではないと考えます。

初心者様は、生長の家の人々はことさらに「人間知」を軽視したがる、それは教えにも問題があるのでは――というようなことを言われたと思います。正確を期するために調べますと――
>>290
>>わたしはいまの議論を、生長の家の人々にみられる「人間知をことさらにさげすみたがる傾向」の根絶へと、できることなら結び付けたいと考えております。<<
>>305
>>雅春先生のお考えのなかにも、「人間知」にたいする批判や否定的心情は間違いなくおありだろうと考えます。生長の家に根強くはびこっているであろう、人間知をことさらに蔑視しようとする感情的傾向が雅春先生の教えと無関係であるとは考えておりません。<<

とありました。

私は、今回のweb誌友会で学びました中にも、
≪「なんのことはない! あらゆる芸術の発生する根元の世界は霊界なのだ!」とヴェッテリニは叫んだ。「芸術の精髄は霊界で創造せられる。地上の芸術的表現はその貧弱な写しにすぎない。余の言わんと欲するところをよく理会せよ。もしある作品にして、高く貴き熱ある作品であるならば、それを心に描き出したのはスピリットであり、その美を認めたものもスピリットである。それで、人の霊魂がその物質的肉体より脱離した時には、かれ霊魂は肉体の枷鎖(つながり)の中にある時よりも芸術創作の神髄にいっそう容易に貫き入るのである。かれ霊魂は、もはや物質的条件によってわずらわされたり束縛せられたりすることはない。明らかに霊界人は弾ずべき楽器をもっていない。しかしかれらは種々無数のバイブレイションを組み合わせて、最も霊妙なる感じの音楽詩歌を創作することができるのである。君たち、現世の人々は霊界(真に存在するもの)から、ただ暗示を、ただかすかな反響を受けるにすぎない!」≫(『生命の實相』第9巻より)

とありました。私は、それを信じます。

「人間知」を、ことさらにさげすむというような気持はなく、人間知の努力も尊いものだとは思いますが、それよりはるかに、人間知では計り知れない素晴らしいものが天界、霊界には存在していて、われわれが心を空しくし魂のリズムを高潔にするときその霊界からの導きを得られる、ということは信じられます。
<つづきます>


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