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Web誌友会 板/2

2787復興G:2013/09/17(火) 16:43:05 ID:AB6RqYXc

>>2785のつづきです。(谷口雅春先生著 『善と福との実現』 より)

 ≪娘が時々母親にすすめられたままに日曜の道場の集会に來るときには、私は、無時間、無空間の話をしたり、「今」「此処」の一点のみあつて過去もなく未來もない、随(したが)つて、過去の罪もなく、未來に流転する業因も存在しないと云ふやうな話をした。

 神のつくり給ひしこの世界には一切の悪もなく罪もない、吾々はあるべきやうにあらしめられるべく、内部の神の催しによつて動かされてゐる。自分で「かう生きよう」と力むときは、そのままがくだけ、神の催しがくだける。來るもの、催して來るものは悉く有り難いものだけである。

 旧(ふる)い道徳的の眼をもつて人を批判してはならない、眞に民主主義の宗教は、「人を斯くあれ」と縛る宗教ではない。各人の内から催して來るところの催しをいづれも神の催しであると拝んでそのまま受けるとき煩悩もそのまま菩提である。

 悩みは「悩み」と云ふ實在があらはれてゐるのではなく神の實相があらはれようとする陣痛の如きものである。悩みを通じて實相が尚一層輝いて顯現する。

 しかもその陣痛の如き悩みもお産のときの陣痛が、産婦の心持で無痛分娩となつたり、快樂となつたりするやうに、神性があらはれ向上するための魂の陣痛も、それは必至のものではなく、受ける心持の如何によつて苦痛が苦痛でなくなるのである。

 苦痛は本來無いのであつて、それは如何にして人生の体験を受けるかの受け方の練習課題としてあたへられる。課題は過ぎ行くべきものであつて、いつまでも課題をつかんでゐるのでは進級が出來ないのである。

 あらゆる体験は人生の教科として與へられたる課題である。離婚と云ふやうな人生上の悲劇も、その課題と真剣にとり組んでそれを解決するとき、そのやうな問題と取組まなかつた人々よりも其の人の魂は進化するのである。……≫
    (谷口雅春先生著 『善と福との実現』 より)

<つづきます>


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