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Web誌友会 板/2

2477復興G:2013/07/28(日) 07:20:28 ID:AB6RqYXc

 ――上記が普通によくいわれる先祖供養についてのご教示ですが、これは、>>2470 の根本真理についてのご教示では、

<< さてこの天国へいったり地獄へいったりする我(われ)というものは、実相の我ではなくて現象の我――仮相の我なのであります。実相の我というものはすでに円満完全な実相の天国浄土にあって、すでに満ち足りて、無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備え、神の無限の供給を受けている欠くることなき状態であるのであります。そしてこの肉体に宿り、また肉体を離れては霊界において生活を続ける霊魂というのは仮相の、念の波によって構成された我であります。

 要するに霊魂というもの(幽体または霊体)もま念の力によって持続している仮の姿であって、「本当の我」 とは異(ちが)うのであります。だから仏教で無我ということを教える、「我(われ)」 というものはない、といって霊魂を否定しているのであります。

 生長の家でもまた 「霊魂も本来無い」 と言う。痛みや、苦しみを超克して次第に浄化してゆく霊魂は本来無い。そんなら全然無霊魂論であるかと申しますと、そうではない、霊魂というものを 「仮我(けが)」 または 「仮有(けう)」 として認めるけれども、そんな不完全な相(すがた)は本来ないのであります。

 すでに救われ、すでに無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備えているのが、実相の我であるというのであります。

 この肉体や、また霊界で苦しみつつ浄化されてゆく霊魂は 「念」 の流転(るてん)、「業(ごう)」 の継続、「業」 の輪廻(りんね)なのであります。業が旋風のように輪のようになって転じてゆくのが念の流転、業の輪廻であって、その業または念は現在において蓄積され、また霊界において蓄積される。その間に修行しながら、念はだんだんに浄化してゆくので、その念の状態に従って念に相応(ふさわ)しい環境が自己の周囲に展開される。これが 『維摩経』 に 「菩薩心浄ければ、その土(ど)また浄し」 とある意味なのであります。(後略)>>

 とあるのであって、ご先祖様の御霊は本来 「すでに救われ、すでに無限の愛、無限の知恵、無限の生命を備えて」 おられるのである。

 だから、

<< 仏典には「一人(いちにん)出家すれば九族天に生まる」という聖句がある。九族とは高祖・曽祖・祖父・父・自己・子・孫・曽孫・玄孫の各九代にわたる親族のことである。「九族が天に生まれて」天人歓喜常楽の生活を営ましめるためには、九族の名前をいちいち呼び出して祀るということが必ずしも必要ではないのである。自分自身が出家することが必要である。

 “出家する” とは必ずしも、家を出て僧侶の修行をすることではないのである。真理を悟って、俗世間に生活しながらでも、維摩居士(ゆいまこじ)のように自由を得るということである。俗世に処しながら、その俗世の生活が真理によって超出した境地で、「菩薩(ぼさつ)心浄ければ仏土浄し」 の浄き世界に住み得ることである。

 自分ひとりがそのような悟境に入れば九族悉く天界に生まれるのであるから、「迷っている霊はひとりも無い」 ということになるのである。「あの霊が迷っているのではないか」 と “迷い” に引っかかるより先に自分が迷っていないようになることが大切である。(『生長の家』誌昭和46年11月号参照)>>

 と、『人生を支配する先祖供養』 p.69〜70には書かれているのであります。


 では、今日午前中は出かけますので、また夕方から夜にお目にかかります。


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