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Web誌友会 板/2
1874
:
ユタカ
:2013/06/11(火) 09:23:53 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま
WEB誌友会で勉強した
>>714
>>715
>>716
をユタカはしっかり受け止めました。
714 :復興G:2013/04/20(土) 20:57:30 ID:AB6RqYXc
さて、テキストに帰りましょう。
テキスト『生命の實相』第3巻で、2番目に掲載されているのは、「万教帰一の神示」と称されている神示です。
この神示の冒頭に、次のように記されています。
≪ われに姿かたちがあるように云うものあれどわれは姿なきものである。われは道(ことば)である。われは霊性である、知恵である、愛である、生命である、われは如来である、われは一つにして多である。
信仰深き諸方の霊覚者にわが神姿を示したることあれども、そはわが真の姿に非ず、見えたる神姿は霊覚者の心識の所現にも非ず。そは、われ神通力によって、疑う者の蒙を啓(ひら)かんがために、異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、神の客観的存在を実証したに過ぎない。
されど、本来われに一定の神姿はない。如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である。されば、嘗てわれ汝に告げたのである「われに神殿は不要である」と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。わが姿を見んと欲(ねが)うものは『生長の家』を読め。われは言葉である。わが言葉を盛る雑誌こそわが神殿である。この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。≫
と書かれており、『神ひとに語り給ふ』の中のご講義では、
≪「われに姿かたちあるように言うものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかということを示しているのであります。「われ」というのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言う方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)います。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思うと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるというのであります。
現象界の相(すがた)のあるものはそういうように自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさわりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。≫
と書かれていますから、今原宿の本部会館に鎮座されていて、まもなく山梨の方へ移転することになっている御神像は、「これこそが生長の家大神のお姿」というわけではない。「その一つの現れ」であるということですね。
ですから、御神像が生長の家の本尊というわけではない。もしそうだったら、偶像崇拝になってしまいます。生長の家の本尊は人間の内に宿る、目には見えない宇宙大生命であるわけです。
ならば、「御神像」にあまりこだわる必要はないわけですが――やはり一つの象徴として、造られたものはその心を大切に保存したい、ということでしょうね。
間違えて違う所に貼ってしまったなぁ〜〜。ここだった。。。
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