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Web誌友会 板/2

18復興G:2013/02/03(日) 16:22:39 ID:AB6RqYXc

>>17: a hope 様。
>>『第11回 web誌友会』ですね!
今回も喜んで参加させていただきます。<<

ありがとうございます。

>>ですが、わたしは前回、第10回の内容もまだ消化不足です。次回までまだ時間がありますので、前回の内容をもう一度しっかり読み直してみて、「虚説」とはいったい何なのかを自分なりにもうすこし考えてみたいと思います。<<

――そうですね。私自身も、まだ消化不良で、「虚説」とはいったい何なのか、はっきりつかめないまま、谷口雅春先生のご文章を謹写していただけでした。

≪虚説に和解してはならぬ――虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説とも和解したとき、本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。
 われわれは天地一切の実在(もの)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事えることはできない」という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。≫

――と、『生命の實相』第14巻に書かれていることはわかった。
(なお、上記の具体的なご指導については、『生命の實相』第24巻「質疑篇」<二、現象なしの自覚について>(88〜99ページ)に詳しく書かれていますから、ここを拝読すると、谷口雅春先生がいかに虚説に和解することなく「現象なし」の真理をお説きくださっているかがわかります。)
 しかし、私たちが魂で、生命でそれを把握できたか――本当に「現象なし」の自覚に入れたか、は、「こう書かれていると知った」だけではだめだと思います。
 そこで、生命でこれを把握するための一助として、また榎本恵吾先生のご文章が浮かんできます。それを掲げさせていただきましょう。(『光のある内に』より)

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

≪生長の家人類光明化運動にいのちをかける」とは如何なることか。この「今」(久遠の今)にいのちを懸けることである。「今」の一点には全宇宙即「生長の家」があるのである。ここにいのちを懸ける道が開かれているのである。それは全宇宙にいのちを懸けることである。

 「御教えの本(もと)に還れ」とよく言われるのであるが、実に、生長の家の御教えの本に還り、尊師のいのちに帰るとはこの「久遠の今」に還ることにほかならない。この「久遠の今」の中に日本があり、天照大御神がいまし、天皇がおわしまし、生長の家があり、尊師がおわしますのである。

 尊師がこの世に、『生長の家』誌を出される決心をされたときに聴かれた声は、「今、起て!」という大いなる天徠の声であった。尊師は万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とは一つであるとお説きになられる。即ち、「今」とは「尊師」のことなのである。「今、起て!」のことばは万物発生の枢機を握る一点において「吾れ」と「今」と「此処」とが実相全機の現成として響いたのである。そして、実相の世界に於いては永遠に常に「今、起て!」というコトバが全機の働きとして鳴り響いているのである。常に、実相の大地に降り立ち、尊師のいのちに参ずるものはこの声を聴くことが出来るであろう。そこにこそ運動の中において一人一人の一挙手一投足に本当の尊師のいのちへの回帰があり、帰命がある。此処においてはじめて本当の意味における尊師のいのち――生長の家人類光明化運動への情熱が吾々各個の中に生まれるのである。
<つづく>


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