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Web誌友会 板/2
1206
:
さくら
:2013/05/18(土) 21:29:28 ID:9XrtgGgA
それから、度々おじゃましてすみませんが、
>>1193
訊けさま
わたしは、実際、生長の家の活動の「現象処理」的なことに、色々疑問や自分の引っ掛かりが、過去にもずいぶんありましたが、
ご文章を拝読しまして、改めて、生長の家の人類光明化運動は、現象をみて対処する運動でなく、
神の子を喜ぶ、すでにある実相を喜ぶ運動だということを、自分の中で、矛盾なく受け取れました。
また、現象ありの考えは、「自分の中からこそ」、排除すべき考えだということも、確認できそのことを心したいと思います。
以下のご文章感動しました。
ありがとうございます。
>「生長の家人類光明化運動」とは、實相がそのまま、今此処に自性を没せず、自発的に顕われることでなければならないのである。實相独在なるいのちが立つところに、真の創造ということが生れる。このときにこそ、大いなる情熱は湧き上がるのである。實相と現象とが先づあって、その相対二元の世界にあって、心を媒介として、心に扶けられて投影して来るという意味での實相顕現では、正しくは、それは實相が顕現したのではなく、心のレンズを媒介として現われたところの心の影なのであり、現象が現われたにすぎないのである。
實相は実在なのであり、實相は心や現象とは関係の無いものであり、それ自身で独在する。實相が顕現するとは、實相が裸のまま、そのまま実在の顔を出すと云うことなのである。<
>實相のみが独在なのであるから、運動という運動も實相の運動のほかはあり得ないのである。あくまでも、他物、(即ち、實相がその顕現にあたって現象の力を借りなければならないと云う迷いの考え)が混ってはならない。純粋に實相が實相する姿でなければならない。純一無雑である。これが自発と云うことに価値の認められる唯一の根拠である。それは實相独在の光明が純粋に持続されているのである。これが生命が生命するはたらきである。<
>「生長の家人類光明化運動」は現象の運動ではなく、また、實相と現象との関係裡に存在の意義を保つ中有的な存在でもなく、実在そのものであり、實相そのものである。それは生命の純粋持続としての永遠の価値創造そのものである。それは絶対自由の絶対主体たる實相自ら発する自発的創造である。
「生長の家人類光明化運動」が実在そのものの運動であり、純一無雑に『實相独在』『唯神實相』を生きており、従って神そのものの動く姿であってこそ、はじめて私達は『最早や、吾れ生くるに非ず、神のいのちここにありて生くるなり』という最初にして最後最大の命題に到達するのである。<
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