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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

989うのはな:2013/10/13(日) 17:44:10 ID:qJoyLft6
>>988

吉田松陰は松下村塾の同門生でのちに明治の元勲になった品川弥二郎が「稔麿が生きていたら
総理大臣になっただろう」と評するほどの逸材でした。
 吉田稔麿は、吉田松陰に下獄の命が下されると、親族を守るために師のもとを離れ、翌年、松陰が江戸に
護送される際には隣家の塀の穴から見送ったという逸話があります。

 稔麿は両藩の信頼を得るために、時勢の推移をしばし待つことに決したのです。
一見すると、自分や親族の安全を優先したととられかねませんが、稔麿には揺るぎない信念がありました。
 それが久坂玄瑞に宛てた書簡にしたためた「わけのぼる麓の道は多けれど同じ高根の月をこそ見れ」という歌にも
表れています。

 目指すところは一つでも、それを達成する道はいくつもある。それぞれ違う道を歩んでもいい。自分はいっとき師のもとを
離れるが、それは目指すところを放棄したわけではないという信念です。
 政治的な運動というのはえてして凝り固まったセクト主義に陥り、自由にものが言えなくなる集団になりがちですが、稔麿は、
方法ややり方はそれぞれにあってかまわない、それを排除するようでは目的は達成できないという柔軟な考え方をとりました。
 その背景には師の松陰の柔軟さにあずかるところが大きかったと思います。

    『声に出して読みたい 志士の言葉』  斉藤孝 著


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