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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

5306tapir:2016/10/15(土) 09:57:17 ID:Cw7YWKn2

>>5301 「訊」様


>>「戦闘か?衝突か?」で云えば、稲田サン説明である「衝突」の方が正確ではあります。ですんで、なにも当方は稲田サンの言葉使いを非難しているワケじゃない、その点を確認した上で次に行きますが、

 それじゃ、何が問題なんでしょうか。

 戦闘か?衝突か?なんですが、問題点は何でしょう。

 ・・・・・・これ、クドイけど戦闘ではナイんです。「だからコワイ」って話を今からしますが、正規野戦軍同士がぶつかれば「戦闘」です。でも、南スーダンにいるのは、少年兵を主体とするゲリラ勢力です。その意味で戦闘ではなく「衝突が正確」なんですけれども、図らずも今回、防衛大臣は「駆けつけ警護で少年兵とやり合います」って事を示唆しちゃったワケです。これが、問題って云う・・・・・・・まあ無論、合法なんですよ(笑)14歳くらいの少年兵に、三菱製の銃弾を見舞っても合法なんです、今の日本では。

 でも、道義性からはどうなんでしょう。栄えある皇軍が貧困出の少年兵を殺害しますが、大義は何でしょう。<<


「衝突」も、ゲリラ戦という、戦闘の一つの形であるということ、つまり「戦争をする」ということなのですね。


大東亜戦争の時、支那戦線では、少年兵とは違うかも知れませんが、一般人の服装をした便衣兵という兵もあったそうです。だから一般市民との区別が難しかったと聞きます。

東京新聞の投稿では、ある村に進軍したとき、女性でも子供でも見逃すと、日本軍が来ていることを通報するかもしれないのでやむなく射殺せざるを得なかったなどという、元日本兵の悔悟の体験も読んだことがあります。


 戦いたくないのに戦わざるを得ない南スーダンの少年兵もかわいそうです。
 それに対抗する自衛隊員も心中、どのような思いなのでしょうか。

 東亜戦争の時は、まがりなりにも「日本の独立を守り、アジアの植民地を開放する」という大義がありました。
(支那戦線の、際限のない拡大は、戦略上の失敗だったと思いますが。)

南スーダンへの自衛隊派遣の大義は、本当に、何なのでしょう。

日本の国益といいますが、アメリカに無条件に従うことが、本当に日本の国益になるのでしょうか?


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