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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2898ぼるぼ:2015/02/04(水) 16:59:41 ID:xQR592/A
目から鱗、楽しく勉強。>>2837自己レス。メルマ、CH.AJER、稲村公望の戦後史ノートの続き。

(2837のつづき)

第九章 サンフランシスコ講和会議

日米関係の枠組みは、まず、スウィンク150の4で始まったが、その後、ケナンが

作成したNSC13/2で逆コースが始まるが、
その「逆コース」をマッカーサーが反対する枠組みとなった。
これが第一の枠組みである。第二の枠組みはサンフランシスコ講和会議である。
ここで、講和条約と安保条約が締結された。日本では、安保条約には,鳩山も,社会

党も不満で、要すれば大多数が不満であった。
これが、1960年の条約改定につながっていく。

米国の友好国との関係には、三つの分類ができる。第一は、完全に平等で相互的な同

盟関係である。
これを、フランスのドゴールの名前にちなんで、「ゴーリスト・オプション」と呼ぶ

が、米仏関係の理想とした同盟関係である。
核武装をした英仏だけが、米国とゴーリストオプションを選択できるのであって、北

大西洋条約の下では、
米英仏は相互依存の関係になるとして、誰がソ連に攻撃されても、他の二国は自分が

攻撃されたと同じように対応する関係である。
第二は、米独関係である。西ドイツのアデナウアーが築いた関係であり、西ドイツ

は通常兵器で完全に武装しており、
ヨーロッパの中では,北大西洋条約の同盟国と,軍事的にも、相互援助を行うことが

できる。
米軍が,ヨーロッパの中で攻撃を受ければ,ドイツ軍は応援する義務がある。
ケナンなどは、このアデナウアーの選択肢を日本に採択させようとしたが、「日本」

は憲法を盾にして断ったのである。
吉田は、アデナウアー並みの軍事的な貢献を拒否しながら、アデナウアー並みの名誉

と平等を要求した。
言わば、名誉あるただ乗りを要求して、それに対する制裁として、名誉なきただ乗り

が押しつけられた。
この第三の選択肢が、1951年サンフランシスコで締結された安保条約である。
これは実質的に占領の継続であり、日本は保護国となったから、同盟関係ではない。
この制裁に対するはんどうが1960年の安保騒動である。
あの憲法では名誉あるただ乗りしかないという、吉田の執念と言い分で、条約改正を

米国は受け入れることになる。

日本に対する講和条約についての米国政府の構想は、三段階で発展した。
最初は、制裁的な占領という講和が、考えられた。
無条件降伏論の延長上にあるもので、連合国の共同監視の下で、日本を25年間、中

立・非武装化しようとした。
これは、米ソの友好関係を前提としていたから、冷戦が表にでてトルーマンドクトリ

ンが発表される頃には立ち消えた。
第二段階が、ケナンの日本の中立化と引き替えに,ソ連の朝鮮半島からの撤退を引き

出そうとするものである。
この中立化には、武装中立も含まれていた。
マッカーサーの東洋のスイス構想は、この時期の発想であるが、米軍の展開を沖縄に

限定すれば、
ソ連が日本を脅かす野心に対処出来ると考えていた。
しかし、米ソの緊張がいよいよ高まる中で、日本は米国の軍事態勢に組み込まれる可

能性が高まった。
ケナンのNSC13/2は、国務省と国防省との折り合いがつかないために、時間稼

ぎの内容となっていたが、
国務省は再軍備に乗り気ではなく、国防省は日本を守るために永遠に日本に駐留する

気はなかった。
1949年1月、マーシャル国務長官が辞任して、アチソンに譲り、ケナンも辞職し

た。
4月には、北大西洋条約が調印されて、中国人民解放軍が揚子江を渡って、国民党政

府の崩壊は時間の問題となっていた。
日本では、1月の総選挙で占領政策に抵抗した吉田と共産党が大勝利していた。

(つづく)


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