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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2
2837
:
ぼるぼ
:2015/01/27(火) 18:00:25 ID:hcXa71vo
(もう一回続き)
第七章
マッカーサーの占領政策には一貫性がない。寛容と過激が入り交じっている。
天皇処刑に反対して寛大な処置をとるが、パージについては民生局の意見を入れて、大量に追放をしている。
吉田は、選挙管理内閣の総理になってはいたが、民政局の吉田いびりは続いていた。
1949年2月にロイヤル陸軍長官が訪日してマッカーサーの説得を試みるが、日本非武装化の線を譲ろうとはしなかったどころか、
米国が日本を永遠に防衛する義務があると持論を開陳した。
二月末にマッカーサーは,日本は東洋のスイスになれと檄を飛ばしているが、
これは、統合参謀本部に対するマッカーサーの当てつけの発言であった。
吉田の民自党が倍増して、芦田の民主党は激減、社会党は二桁に転落、共産党は倍増した。
マッカーサーは選挙の後で、手のひらを返すように吉田と関係を改善している。
第八章 マッカーサーと吉田の妥協
マッカーサーにとっては、新憲法を守ることが全ての出発点である。
マッカーサーは護憲になるワシントンの指令だけを実施した。
マッカーサーの一存で、パージが延長されて、追放された政治家は、講和条約交渉から閉め出された。
ニューディーラー達は吉田を虫けらのように嫌っていた。
マッカーサーは、講和条約に憲法を書き入れることが最終目的となった。
日本が二度と戦争ができないように,ある種の革命史観が働いたかのようである。
追放は全て非武装化の名目で行われた。敵は個人ではなく社会構造であった。
罪のない人間は追放できないから、超国家主義者、軍国主義者のラベルを貼ることになる。
間接統治とは、官僚を温存することになった。
主権の全部はマッカーサーにあったから、直接統治を間接統治に見せかけただけであった。
占領下の権力の序列は、GHQが頂上で、官僚がその下、一番下に政治家がいたといっても言い過ぎではない。
戦後の日本で官僚が強いのは、占領政策で、職業政治家が追放で骨抜きにされて、官僚が戦前の状態で温存されたからである。
1949年の選挙で、吉田学校を造り官僚政治家の増産にも手がけている。
占領中の日本には民主化はあったが、民主主義はなかった。
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