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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2835ぼるぼ:2015/01/27(火) 17:56:30 ID:hcXa71vo
>>2818お茶飲み友達の志恩さん、合掌ありがとうございます。レス感謝。

稲村公望さんの記事の続き:

  『 ChannelAJER プレミアムメールマガジン』 Vol.319.0  2015/1/27(火)発行 からコピペ
 

第四章 憲法改正

敗戦後の日本政府の至上命令は、皇室の存続であった。
ポツダム宣言についての日本政府の解釈にしがみついて,それを米国政府に要求することであった。
これ以外は大幅に譲歩して,それと引き替えに維持する戦術であった。
憲法改正は天皇の大権に変更を加えるものであるが、マッカーサーは、米国本国から特別指令が届く前に、改憲を促している。
9月15日には、東久邇首相に最初の提案があり、10月4日には、近衛文麿に話している。
近衛文麿は、内大臣府御用掛に任命され、改憲に着手している。近衛は、陸軍省と国務省の軋轢の犠牲となった。
幣原首相は、マッカーサーの提案をけしからんことだと評したが、いやいやながら、
内閣に憲法問題調査委員会を設置して松本蒸治を委員長に任命している。
幣原内閣で一番強行に反対したのは吉田茂外務大臣であったが、後に、新憲法擁護に回ったので、
反対した当時の記録がほとんどなく、いかなる理由で吉田が立場を変えたのかは、戦後史の中での重要な問題点として残っている。

憲法改正をせよとの指令であるスウィンク228がワシントンから到着したのは、1946年の1月11日である。
マッカーサーは、憲法に反対する「階級」を追放で取り払い、中道政党を創り上げて、自主的に憲法を採択させることを考えていた。
戦後最初の総選挙は、憲法改正への人民投票となった。追放は、1946年1月4日のポツダム指令によって行われた。
追放は、150万人に書類提出を命じて、21万人を公職から追放したとするが、正確な数字もない杜撰なものである。
1月24日、幣原首相は、マッカーサーを訪問した。マッカーサーは、天皇制は日本国民の統一の象徴として維持すること、
憲法に戦争を放棄する条項を加えることについて決定している。幣原は、
ケロッグ・ブリアン不戦条約のようなものを国際公約として宣言することを話して、マッカーサーは涙を流して賛成したという。
翌日、マッカーサーは統合参謀本部に長文の電信を送っている。
「天皇に対する犯罪追求の可能性に関して・・調査が行われた。明確で実質的な証拠は全く見いだすことができなかった・・。
もし、彼を裁判にかけるとすれば、占領計画に大きな変更が必要になる。
したがって、裁判を実施する前に周到な準備を完了すべきである。
彼を起訴すれば日本人の間で巨大な動揺が起き、その結果はいかに過大評価してもしきれない。
彼は日本国民を統合する象徴である。彼を処刑すれば民族が分解するであろう。
殆ど全部の日本人が彼を社会的な元首として尊敬し、その正否はともかく、
ポツダム合意は彼を天皇として維持する意図であったと信じている。
(これに反する)連合国の合意を彼等は裏切りと解釈するであろう・・・最小限百万の軍隊を無期限に駐留することが必要になるかもしれない。」と書いている。
ところが、幣原は、閣内の意見統一ができず、2月1日に松本草案が新聞にすっぱ抜かれ、
日本人のだらだらはこれ以上許せないとしたマッカーサーは、2月3日に民政局に草案の起草を命令している。
その際の三原則は、国民統一の象徴として維持すること、戦争を放棄すること、華族制度を廃止すること、であった。
草案は12日に完成して、13日には、ホイットニー准将(民政局長)、ケージス大佐他二人が吉田外務大臣、松本大臣、白州次郎に草案の受諾を迫っている。

4月10日に新憲法に対する人民投票になる総選挙が行われ鳩山一郎の自由党が第1党になるが、直後に追放され、第一次吉田内閣が始まる。
帝国議会の最後の第九十議会が6月20日に始まったが、国体明徴運動で追放された美濃部達吉博士は、
国体の擁護のために徒手空拳で立ち上がっている。
吉田総理は、マッカーサーを代弁して、日本国民の意志にもとずいたものであるとして、
第九条については自衛権をも放棄したと述べている。

貴族院は10月6日に、衆議院は七日に新憲法を採択している。
忠実なる日本人は、天皇陛下を救うために憲法改正を受け入れたのである。

(つづく)


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