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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2190うのはな:2014/07/22(火) 20:23:57 ID:U1E1fz8c
>>2189

 科学的ではない想像物が、科学の衣を着て社会をだましたのだから、一種の偽造論文とも言えます。それと同じように、この本多勝一さんの記事は、数人の中国人にヒアリングしただけで、
それに自分の想像も加えて書かれています。歴史学としての厳密性を持っていません。
 特に南京のことは、本多さんはおよそ2泊3日ぐらい南京に泊り、そこで日本軍から暴行されたと自分で言っている中国人からだけ話を聞きました。
残虐行為を受けたという証拠は、中国人が見せた自分の体の傷です。もちろん傷が日本人がつけたのか、自分が転んだのか、ヤケドしたのかわからりませんが、いずれにしてもそういう写真が1、2枚、
本に貼り付けてあります。

 問題は、わずか2泊3日の南京滞在で「南京虐殺」という言葉が作られたということです。
それが日本と中国の間の大きな障害になっていったのです。ところで、南京事変というのは、1937年に上海でドイツ軍人に指揮された中国軍が突如、中国政府との協定で駐屯していた日本軍を攻撃します。
つまり、当時上海には租界地があり、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、日本の人がいました。租界地にいたほとんどの人は民間人ですが、当時の世界では、こういった租界地には軍隊が駐留できることになっていました。

 治安が悪く、虐殺の恐れがあるので、軍隊が自国の国民を守るために租界地に駐留していたのです。それは日本ばかりではなく、イギリス軍もフランス軍もいました。
そういう状況下、当時の中華民国の指導者、蒋介石は、日本軍だけを狙って攻撃をします。上海の祖界地を取り戻そうとして行動を起こしたのではありません。蒋介石は白人側につき、有色人種で力を伸ばしてきた日本人をなんとかして排斥しようと
思っていました。当時、蒋介石の裏には、世界全体に影響を及ぼしていたコミンテルンという共産党の司令メンバーがいたと言われます。

 つまり、上海に租界地があり、そこには白人の国と日本人がいた。それを守るために各国の軍隊が駐留していた。これに対して、中国がドイツ人の指揮の下で日本軍を追い払おうとした、と、こういうことです。

 『政府・マスコミは「言葉の魔術」でウソをつく』 武田邦彦 著


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