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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2
1958
:
曳馬野
:2014/06/29(日) 14:54:34 ID:I/wU8psA
>>1955
○外国のエコロジーのように、自然をただの物質とみるわけではなく、崇拝の対象とするところに、神性開発が起こるのではないでしょうか。
やはり、生長の家で信仰を犠牲にした環境運動より、生長の家の物質なしの自覚が、まず大切になってくるのではないかと、思うのですが。
●ただの物質と見て信仰を犠牲にした環境運動と見ているのはあなたですよね。一つ命が人間に自然に顕れているのに分裂していると見るあなたが可笑しく
ないですか?機関紙の6月号を見ましたがどこが信仰無視なんですか?アジアの貧しい国の方々は「自然」と一体になって生きていませんか?
最大限自然を大事にして、共に生きるしか貧しい国の人々が生きる道はないでしょう。その道を先進国と云う「無限供給」は当たり前と云う人々が壊しているのでは。
いずこの国にせよ固有の文化は、自然の中で、一生懸命生きて来た結果としての文化でしょう。一生懸命のところが神性そのものではないですか?
○自然を物質とみず、まず人間同士の調和の反映として観ることだとおもうので、個人救済することと、矛盾をするようには思えないと、
わたしも感じるのですが、いかがでしょうか。
●自然は人間に関係なく、精いっぱい生きていますよ。「個人救済」の指すものが今までしてきた生長の家の分派の人たちがして来たようなレベルの救いであれば
(本流を名乗ることそのものに、自分達のしてきた生長の家の活動とはこんなものでした、雅宣先生を善しとして教団と偕に生きている信徒は騙されているから
目覚めよ、そんな生長の家の信仰がどのようなものかを知らない信徒を作り出すような活動をしてきましたと云っているのと同じ)
そんな活動はどうでもいいのではありませんか?
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