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「本流対策室/4」
175
:
さくら
:2012/10/08(月) 10:37:41 ID:8ItewG4I
ずっと気になっていたのですが…
縹様が光明掲示板に書かれた
「真の生長の家の教えに到るには」において、
縹様が『完成の燈臺の神示』の講義の解釈は、途中までは理解させて頂きましたが、
結論づけていることには、(「“最後の審判”に就いての神示」の本流派の方の解釈に関して)と同じようなことを感じます。
>現在の状況も、これと全く同じことが起こっております。
本当の生長の家の教えに到達するには、この門を通らねばなりません。
自分の事を、肉体的存在だと思っていては、危なく思えて、通過する気が起きないかもしれません。
現教団から去って、本当の生長の家に向かう時には、肉体に付属するものを半ば諦めないといけないかもしれません。
縹様は、「ケルビムの炎の関門」を通過できないものは、
たとえば、現教団から去ることができないと見える「外にいる人間」と思っておられるのでしょうか。
>「生命の實の相」(生命の實相)を「心」でよくかんで食べる。食べるといふのは、トックリと腹に入れて良く消化し、自分の身につけるのです。「ああなるほど、人間の生命といふものは物質の肉体ではなかつたのである。神の生命であつたのである」と、生命の實の相をとつくりと腹に入れて良く消化して霊(たましい)の底にまで吸収したならばエホバの神様が「生命の樹の果実をとりて食ひて限りなく生きん」と言われたとほり、「永遠の生命」を得て限りなく生きることが出来るのであります。
とありますように、「ああなるほど、人間の生命といふものは物質の肉体ではなかつたのである。神の生命であつたのである」というのは、自分の心にその関門を見ることであり、
この関門を通過してない(と見える)外の人間を、別な立ち位置にいるものと見なして、
対話ができないとか、別の場所へいくべきだ、とすることではないとおもうのです。
これこそ、二元論になるのではないかと思われます…
縹様がお使いになる、真の生長の家という言葉がこのような意味であるなら、
わたしは、この「真の生長の家」には違和感を感じています。
訊け様がまとめた、以下の文は、
分かりやすいです。
○ この神示も「和解の倫理」同様です。雅春先生は「他人に悪を見て審判(さば)け」などとは、おっしゃっておられません。
○この神示は我々ひとりひとりの「内部のキリスト」(=うちなる神)に向けて宣べられた言葉と、解釈する次第です。
○焼かれるべき虚説とは、「自分側の虚妄(にせもの)」を指します。
○「自分側の虚妄(にせもの)」が摧破されるとき、「大調和の神示」との整合性が出ると解釈します。
同じようなことをこの文章の解釈からもかんじています。
神示の内容は、とても深く、縹様のような大先輩の深い解釈には勉強になることが多いのですが、
縹様のお言葉の端々から、この点がいつも気になるところでございます。
拝
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