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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
968
:
うのはな
:2012/12/16(日) 18:02:18 ID:4rq1UWDw
武士が詩歌や音楽を楽しむ理由
昔から武勇の気質に富み、またその教育で知られていた薩摩藩では、若者の間で音楽をたしなむ習慣があった。
その音楽はシェークスピアのいう「血と死のやかましい前兆」である鉦や太鼓を打ち鳴らし、虎のようにふるまうことを
鼓舞するものではなく、嫋々切々たる琵琶の音色をもって、荒々しい心を和らげ、血の臭いや殺戮の外に思いを馳せさせるものであった。
ギリシャの歴史家ポリビウスによれば、昔アルカディアにおいては、荒涼たる風土が粗野な性格をつくり上げるのをやわらげるため、国法に
よって、三十歳以下の男子に音楽をたしなむことを義務づけたという。アルカディア山地の人民が残忍な性格を持たずにすんだのは音楽の賜物である、と
彼は述べている。
我が国においては武士に温雅、優美を教えたのは、薩摩藩だけではない。
白河の藩主(松平定信)は、心に浮かぶままに、随筆に次のように書き記している。
「花の香り、遠寺の鐘、霧の夜に鳴く虫の音は、夜あなたの寝床にこっそりやってきても
許されるものである」とも記している。
このような風雅な感情を表現し、それを養うため、武士の間にも詩歌が奨励された。
だから我が国の詩歌には、悲壮と優雅の両方が根底に強く流れている。
勇猛な武士の心にをやわらげるのは詩歌であった。ある粗野な武士の物語として世に知られている
次のような話がある。
大星由良之助の家来に大鷹文吾という者がいて、たいへん律儀者であったが、生まれつき気持ちのせかせかした
無骨者であった。そこで大星は彼に俳諧を学ぶことを勧めた。あるとき、庭で鶯がさえずっているのを聞いた大鷹は、
「鶯の初音をきく耳は別にしておく武士かな」と詠んだ。
この句を見た大星は喜び、もう少し気を配ればとてもよい、と彼を励ましたが、他の者たちは皆ばかにして笑いの種にした。
それからまたしばらくして大鷹は、「初音きく耳は別なる武士かな」となおし、またしばらくして遂に、
武夫の鶯きいて立ちにけり という名句をものにしたのである。
ドイツの詩人ケルナーが戦場で負傷し、有名な『命への告別』という詩を書いたことは非常に感嘆賞賛するところであるが、
しかしこのようなことは、我が国古来の戦において稀なことではなかった。
特に我が国の和歌や俳句の形態は、物に触れ事に感じてとっさの感情を表現するのに適している。
したがって多少の教養のある者はいずれも詩歌をつくり、俳句を詠んだ。
戦場を馳せる武士が駒を止め、矢立てを取り出して歌を詠み、あるいは如意輪堂西海に没した者もあれば、
戦場の露と消えた後に、兜や鎧の内側から詠んだ歌が見いだされた者もあった。
凄惨な戦場にあっても、武士の心に慈悲と憐憫の情を喚起したのは、ヨーロッパにおいてはキリスト教であり、
日本にあっては詩歌と音楽の嗜好であった。
優雅の情感を養うことは他人の痛みを察する心をはぐくみ、他人の感情を思いやることによって生じる謙譲と
慇懃の心は、すなわち礼儀の根本であった。
『武士道』第五章 「仁」より 『武士道と修養』 新渡戸稲造 著
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