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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

888うのはな:2012/12/05(水) 00:07:52 ID:e2uGAy0E
『信仰による平和の道』にみる谷口雅宣氏の誤謬(四)

   なぜ「環境問題に逃げ込むのか」(第四章批判) 山中 学
 抜け落ちたこと

 谷口雅宣氏の『信仰による平和への道』の第四章についての批判である。
この第四章で、谷口雅宣氏は全巻を通して、唯一はじめて人間らしいことを言っている。
 それは「当時の世界情勢(昭和四、五年ころ)と今日と似ていないこともないのです」(一九二頁)
としている箇所である。同氏はここで、二十世紀の世界情勢と二十一世紀の現実とが似ていることを指摘して、
昭和二年(一九二七年)の第一次山東出兵から翌年の第二次山東出兵、その二ヶ月後の張作霖事件をきっかけとした
満州占領、一九二九年からの「世界大恐慌」を挙げている。

 そして、「日本を含め世界中が不況で(中略)、世界中が不安になっています。
当時は、これよりももうちょっと悪い状況でしたが、似たような所がないわけではない」(同頁)としている。
 もし現在の世界情勢についての、重大な危機感をともなったこのような認識があるならば、現在の「生長の家」教団は
「われら何を為すべきか」といった、世界不安に対する対応が示されて当然であろう。

 谷口雅春先生はこのような危機に遭遇し「世界中が不安になっていた」昭和五年(一九三〇年)三月一日に「生長の家」誌を
創刊され、「汝ら天地一切のものと和解せよ」という「大調和の神示」が天降ったのである。
 「大調和の神示」は漫然と堕落した「平和」の教えではなかった。
世界中が不安におののいていた世界恐慌と満州事変から日華事変を経て大東亜戦争にいたる第二次世界大戦前の世界不安を克服するための神示であった。
 ところが。谷口雅宣氏は現在のこのような世界危機、世界不安に対して、「生長の家」教団が「何を為すべきか」については一言も触れようとはしていない。
大勢の熱心な信徒の間から「生長の家は環境問題に逃げ込んでいるのではないか」という不満が鬱然と起きるのもムリからぬところであろう。
もちろん「環境問題」が重要であることは言うまでもない。しかし、「環境問題」は「逃げ込む」姿勢で打ち出されるべきものではなく、経済的理由から解放されて
「まことのいのちの実相」に目覚めるときの明るい光が輝きこぼれるものとして提起されなければならないのである。

 全世界に不安が満ちている二十一世紀に、歴史はしばしば個人の運命に不条理に働くのである。
たとえばアフガニスタン難民や日本人拉致事件など、ふだんは政治には何のかかわりもない平凡な日常生活を送っている人々に、突然の嵐のように不条理の力が襲いかかり
理不尽な不条理の世界の底に呑み込まれていくのである。

 「存在は不安だ」という実存主義者たちの悲鳴が上がるのも無理からぬ世界にわれわれは生存しているのである。
とくに現在の日本国民は、戦後半世紀以上の歳月を経て、戦後の日本を支配してきた価値体系のすべて、「東京裁判史観」と戦後憲法と「一国平和主義」に特徴づけられた価値体系が
崩壊しようとする歴史的転換期に際会している。

 北朝鮮の核脅威・拉致問題、テロ対策の強化、自衛隊のイラク派遣、集団的自衛権の再評価、憲法改正問題の是非、長引く経済不況など、国民生活の政治、経済、社会のすべての領域を
覆っている「不安」に「生長の家」教団は目をつぶっていていいのだろうか。
そこには「生長の家」教団の存立の真価が問われているのである。

 先にも述べたが、昭和五年の谷口雅春先生の「生長の家」誌創刊はこういう「不安」を克服するものとして為されたのである。
一九四五年の敗戦に際してさえ、日本の現象的な姿が三日月のように欠けても「実相円満の日章旗のようにまんまるい日本の国は無くなっていないのである」
(「日本の実相顕現の神示」)と述べられたのである。

 だから、固唾を呑んで見守っていた信徒は感激して、谷口雅春先生の敬虔な教えを深く信仰したのである。
ところが、谷口雅宣氏の教説の中には、人々を「不安にする現実問題」がすっかり「抜け落ちて」いる。
だから「環境問題に逃げ込んでいる」と批判されるのである。(つづく)

 一部抜粋引用 『谷口雅春先生を学ぶ』 平成十六年五月号


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