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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
84
:
さくら
:2012/07/09(月) 11:29:54 ID:vxm3Yqkc
>>72
スターダストさま
ありがとうございます。
スターダストさまが、引用されているご文章には、わたしは、意義はありませんが、
ただ、先日よりスターダストさまのお考えと、異なることがあると思われます。
科学や物理的法則が、原罪だ、と称されていたことなどもそうです。
わたしは、罪があるとすれば、科学や物理の法則自体ではなく、そのとらえ方が、罪を生むのだとかんじております。
いわゆる左脳自我の増大によって、この法則の全体性が捕らえられなくなったことの方が、問題だということです。
科学の法則も、宇宙の叡智の一側面とは、いえないでしょうか。その法則に添うことによって、見えない叡智に「リアリティ」を感じるものがあると、おもいます。
スターダストさまが、「夢」だと引用される部分については、意味は把握しておりますが、
だからこそ、この夢を生きるのに、リアリティを求めること自体を否定することではないともかんじています。これは、生きる実感に大切なことと捉えています。
科学の法則を、宗教的世界観と対立するものだと、単純に二元論的にはだけ言えないのではないかともおもっています。
たとえば、先に挙げた南方熊楠は、生物学について、西欧のシステム論的な分類学に収まることをしませんでした。生命に現れるありのままの不可思議な現象、熊楠独自の生命観で捉えています。それは、マンダラ、という仏教の密議に通じるような、哲学にまで体系づけたようなのですね。
熊楠は、既存の生命システム的な論理で捉えることの出来ない生命観を、ニルヴィーナマンダラ、としてアジア的な哲学を折り込み、それは、大日如来の人知で捉えることの出来ない不可思議な働きを、表現されていると語っているようです。
一観察者としての主体客体や、生命と死、右脳的把握と左脳的把握、こちらの世界とあちらの世界・・・熊楠は、そういう境さえも、縦横無尽に行き来できるような、特異な魂の持ち主だったとは思いますが・・
やはり、科学や物理も分類学の枠を越えて、生命の全体的な把握を目指すことがあればと感じます。
科学的アプローチが、必ずしも宗教的な真理にたどり着くものではないと思っておりますし、お互いに、利用するような方向にあっては、たいへん危険があり避けるべきですが、
純粋な探求心による、歩み寄りの姿勢は、わたしは大切と考えております。
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