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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

838うのはな:2012/10/31(水) 14:58:18 ID:uk3bgnv2

     体験談の位置づけについて

 さて、今回の体験談について、一つ問題にしたいことがある。それは、こうした体験談が、
大変すばらしいものではあうが、それを絶対のものと思って、そこに停滞してはならないということである。
体験は体験としての現実性を具えているが、それはある個人の体験としての限定、一面性から逃れることは出来ない。
真理は全相である。その一部分のみを絶対化することはひとつの迷いであると『大乗起信論』に説かれている。

 善の本に『十牛図』というものがある。それは禅の修行者のための手引書である。
それは牧人が牛を求める姿が十枚の絵に表わされているものである。牛というのは「真の自己」つまり実相の自己である。
第一図は尋牛と題されていて、求道の出発である。第二図は見跡。彼は牛の足跡を見つける。
それは教えをうけて、道理を学ぶ段階である。自他は一体であるとか、実相は完全円満であるという真理を頭で知った段階である。
第三は見牛。行において実相をかいま観た段階である。第四は得牛。われ実相を得たり、の段階である。
今回の体験談では、こうした悦びが表現されている。ところが、ここは頓得の悟りであって究極ではない。

 ここから第五牧牛。第六騎牛帰家。第七忘牛存人。第八人牛倶忘。第九返本還源。第十入鄽垂手。(てんとは街のこと、垂手とは手をさしのべて衆生の
ために尽くすこと)と、さらに進まねばならないことが教えられている。第十は、街へ行って世間の人に愛行することである。
 こうして追って見ると、いわゆる頓得の悟りからいろいろの段階を経て魂は深まって行くわけである。
仏典の『首楞厳経』には、「観」の修行中見て過ぎて行くべき五十の魔境が描かれている。この中には「清浄を成就すれば浄心功極まって忽ち大地十法の山河
を見るに皆仏国となって七宝を具足し光明遍満す」という世界も魔境であるとされている。

 総じて、ヴィジョンを観る境地は、そこに止っていてはならないところのようである。
白隠の『息耕録』には、「上智の人は妄りに菩提を証して、こうした法身仏を見る」として、こうした法身仏を見るような境地も越えられるべきものとしている。
 もちろん、このことは前述の体験談の価値をおとすことではない。それを究極のものと考えることが危険なのである。
どのような体験でも、それが現象時間の経過の中で行なわれる限り、それは無常である。
それは流れるものである。

『光の国から』渋谷晴雄 先生著


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