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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

808うのはな:2012/10/22(月) 11:40:15 ID:Pp0T7lVc
   歩く道にもそれぞれの高さがある
 
 「世を渡る」とはどういう意味だろう。僕は、自分以外の多数の人たちと共存する、という
意味だと理解している。では、世を渡るにはどのような考えで渡るのがいいのか。
ある人はあくせく働く勤勉貯金主義で行こうとするだろうし、ある人は飲めよ食らえよで、宵越しの銭は
持たない主義で行くだろう。人生はわずか五十年だ、太く短く行こうという人もいるだろうし、反対になるべく細く
長く行こうという心得の人もいる。こうした違いはどこから来るのだろう。天性楽天家に生まれたから、あるいはその反対の
性質を持って生まれたからという理由もあろう。

 僕の考えは、この世の中とは誰とでもいっしょに通っていかれる、馬車も馬も一緒に通れる大きな広い道であるけれど、その中には
階段があって、人によって高いところを歩く者、低いところを歩く者がいる、というものである。
 菊見の宴会に出たときの話である。お互いに知っているある新聞記者のうわさになり、ある人は「彼は品のよい男だ、性質もいい」と述べ、
別の人は「彼は品が悪い。性質も悪い」と述べた。
「新聞記者では品行もまあまあだし、書くこともなかなかよいことを書く。感心な男だ」という者もいれば、「あいつは大学にいたときは仕方のない奴だったし、
卒業後もあっちこっちでしくじりをした」という者もいた。同じ人間に対する批評が正反対なのである。

 そばで聞いていて、僕はこう考えた。いわゆる世間一般でいう高い地位にいる者、たとえば官吏のような標準から見れば、この新聞記者は程度の低い品の悪い人間なのである。
一方で、品がいいといってほめるのは、新聞記者という仲間内ではー情けないことに今日ではずいぶん乱暴な者たちがいるがー彼は群を抜いて品がいいということになる。
今日の新聞記者という職業界にあっては、彼は品がいい仲間に入っているのである。

 つまりこの評は、人そのものについて述べているのではなく、世間を渡るときの高いところ、低いところという立場からの評なのである。
これはよくあることで、絶対的にその人の性質いかんを判断するのは難しいから、歩いている道が高いか低いかでその人物を定めるだ。

『武士道と修養』 新渡戸稲造 著


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